読む楽しみと聞く楽しみ 

 自分で読むことを「読書」、ストーリーテリングで聞くことを「聞く読書」という言い方をしていますが、実は、「読書」と「聞く読書」では決定的に違う点があります。

 それは「聞く読書」は、物語の進行は一定速度で、結末まで止まらず、途中で戻ったりはしないことです。

 「読書」はこの辺はとても自由で、私たちは特に意識することなく、自分のペースで物語に浸りたい場面では読み進めずに読むのを止めたり、前に戻って確認したりしています。

 この辺のさじ加減は、誰に教わるものでもなく、物語に浸った経験から生まれるもので、人によってやり方は違うものです。

 読者によって気になるところは違うし、もっと言えば、同じ読者でも読んだタイミングで気になるところが違うからです。

 そして、これが読書の醍醐味でもあり、個人の内面的なものだと言われる所以だと思います。

 しかし残念ながら、集団で聞くストーリーテリングは、止まることや戻ることができません。

 けれど、止まらず、戻らなくても物語がきちんと楽しめる作りになっているものの代表が昔話です。テキストが語りに向いているかというのは、この点を踏まえると、さほど難しいことではないはずです。

 ただ、気をつけなければならないのは、再話者が昔話をより読書に向く形に整えているものが混ざっている点です。活字化するということは、聞いて楽しむ形で伝わってきた昔話の持ち味を殺してしまう危険と隣り合わせの作業です。

 語ることを意識したテキストを見分けていけるように、語り手は、おはなし をたくさん聞き、活字から離れた物語を受け取る経験が必要です。

 どう聞こえるのかは、聞くことでしか身につかないですし、物語が伝わる際の優先順位は、語り手が好きな場面とは一致しないことがわかるからです。