雑感

雑感 · 2022/01/01
 宮沢賢治は『春と修羅』を自費出版した際に、これは「詩」ではなく「心象スケッチ」だと述べています。人間の心象を描くということは個人的なものを越えて普遍的なものをスケッチすることだと賢治は考えていたようです。賢治の「心象スケッチ」に対する考え方は『春と修羅』の序を読むと賢治の思いが伝わります。その中で私が特に惹かれるのは「すべてこれらの命題は心象や時間それ自身の性質として第四次延長のなかで主張されます」という結びの言葉です。賢治の文章は難解な表現が多いですがここでいう第四次は時間のことで、賢治は自身の心象スケッチは現世だけに受け入れられるものではなく、四次元で生き残ることができ、どの時代においても新たに生まれることができるような芸術であり広い宇宙とつながる自分の心を言葉で書き表したという考えだと思います。  『春と修羅』は「永訣の朝」が有名で確か教科書に載っていたような記憶があります。ヒリヒリとするような痛みと行き場のない悲しみで『春と修羅』はその一作を読んだだけにも関わらず宮沢賢治に長い間苦手意識を持つほどのインパクトでした。童話と言われる作品も有名な作品が数多くあり、音を感じさせ耳に残るような印象的な美しい文章で綴られています。でも、それがあまりにも真っ直ぐで自分に厳しい賢治の眼差しを余すことなく伝えるので読み手自身の曖昧さをも許さないものと受け取ってしまい、やはり苦手だと思っていました。けれど今読み直してみると賢治の純粋さは眩しく、他者を責めるものではないことがわかります。そして心象スケッチに代表される賢治の普遍的なものという感覚は昔話に通ずるものがあると感じています。賢治のような作家はその才能によって時代を越えていくのでしょうし、昔話は関わった個々には才能というほど突出したものがなくてもたくさんの人が時間をかけて磨き出したものとして時代を越えていくのでしょう。そのたくさんの連なった人の一人として私たちは語っているのだともいえます。『春と修羅』のなかに「水汲み」という作品があります。宮沢賢治が実際農作業に勤しんでいたことを思い出させる作品で、文中に「水を汲んで砂にかけて」というフレーズが何回か出てきます。この果てしない繰り返しの感じが私たちの取り組んでいることに似ています。ささやかな取り組みですが物語を楽しむ子どもたちの未来を思って水を汲んで砂にかけるように私たちはストーリーテリングをしているのかもしれません。
雑感 · 2021/12/26
 NHKのラジオ番組「ひるのいこい」をご存知でしょうか?お昼12時台に放送されているNHKラジオの長寿番組です。番組冒頭のテーマ曲といいアナウンサーの語り口といい牧歌的な雰囲気はいかにも日本の原風景といった感じで耳にすればご存知の方も多いのではないかと思います。この中でリスナーからの手紙をアナウンサーが読み上げるコーナーがあります。この読み方はとても特徴的です。気持ちを込めて読むということのお手本のような読み方で感動的に読み上げられます。けれどあまりに感情がこもりすぎてエピソードの全体像を掴むのに苦労するので個人的には苦手です。それこそ70年近く続いた番組ですからこの読み方が支持されてきた歴史がありますし、読まれる手紙も情感をこめやすい文章が選ばれていることを考えると、リスナーもこの読み方を前提に文章を書いていらっしゃるのではないかと思います。  ただこれはおとなの楽しみ方だなあと思います。聞く力が十分備わっていて余力があるからこそ行間とも言える感情を際立たせて読んでも内容が受け取れ、なおかつ感動できるのだと思います。子どもに語っている私たちが誰がどこでどうしたという物事の流れに集中しそこを追うことに徹しているのは、聞いている側が全体像が捉えやすいからだという事が「ひるのいこい」での読み方と比べるとよくわかります。音読は目的によって読み方が大きく変わります。読み方は多種多様でどんな読み方もできるからこそ、自分が何を伝えているのかを意識する事が大事なのだと思います。
雑感 · 2021/12/25
 おとなはとかく子どもを守り導かなければならないと本能的に思う部分があります。それはひとりでは生きられない形で生まれ落ちる人間だからこそ備わっているのだと思います。けれど守り導こうとすることはいついかなる時も効果を発揮するかというとそうでもないところが難しいのです。親との境目が薄いと思うほど親に助けられ委ねられている時期はずっと続くことではありません。親と子の境目は徐々にはっきりし、おとなの保護や配慮は必要なのに守られている事をあからさまに感じるのを嫌うという難しい時期を過ごしながら子どもはおとなになっていきます。自分がおとなになって見るとおとながどれだけ譲歩し見守ってくれていたのかが見えてきますが、干渉されることを極端に嫌い、おとなのやることなすこと気に入らないという時期はおとなになるために必要な時間なのだと思います。そして自分が自分であることを自覚し自分を作り上げるために干渉されないと思える時間がある事は子どもにとってとても重要だと思います。  実生活の子どもは当たり前ですが無力な部分が多く、否応なしに保護されるしかないところがあります。そんな中で読書する時間は物語の世界に入ることで自分だけで過ごす事ができます。物語の中にいるときは自分は誰の助けもいらない自分でいられます。ですから自分で読めることは子どもにとってとても重要なことだと考えています。  そして私たちがしているストーリーテリングや読み聞かせは、その読書への扉を示し扉を開けるお手伝いをすることだと考えています。自分で読むことの前倒しとして子どもがひとりで物語を受け取る体験ができる事を目指して私たちは語ったり読んだりしています。大事なのは読み方ではなく物語であり絵本であるという考え方のベースはそこにあります。読書の楽しみを知っているおとなとして誰にも干渉されずに自分で受け取る楽しさを子どもたちに知って欲しいと考えています。
雑感 · 2021/12/20
 聞き合うという形で勉強会をしているという話をすると、参加する事を尻込みする方がいらっしゃいます。どうも聞き合うというのは粗探しをしているという印象を持たれるようです。参加する事が億劫になったり何となくハードルが高い気がしたりする気持ちは私も体験があります。指導してもらっていた先生の目をみると物語を忘れそうになったり、あまりに真剣に聞かれて間違えたかしらと気が散った事を思い出します。今思えばその時も今も私たちがしているのは聞いて物語を受け取るという事で、実は誰が語ったのかはさほど問題ではないのです。聞いて受け取ることを楽しみたいと思っているので、うまく受け取れなかった時に何がいけなかったのかを考える場として勉強会があります。そもそも聞いて受け取るには誰かに語ってもらわないと受け取れないので語り手が必要だともいえます。  皆さんがもうちょっと気軽に勉強会に参加し聞いたり聞かれたりすると、ストーリーテリングや読み聞かせがなんなのかの理解が深まるのではないかと思います。おはなしざしきわらしの会のメンバーは語り手としての経験が長い人が多く、勉強会もグループになっていて固定のメンバーと聞き合っています。そのため知らない人が聞き手に混じると語りにくいという印象を持つくらいにメンバーが馴染んでいます。固定のメンバーで語るということの安心感や語りやすさを思えば、そこに留まっていたくなる気持ちもわかります。けれど新しい風も必要なのかもしれないと最近思います。私たちが物語を渡したいと思っている子どもたちも徐々に変化しています。自分たちが予想した通りに聞いてくれるとは限らなくなりました。経験だけで越えられない聞き方をされることもないとはいえません。私たちがこれからも子どもたちに物語を渡していくために様々な聞き手に慣れていく時期かもしれません。子どもメインで語っていく事に違いはありませんが聞き慣れないおとなの聞き手にも聞いてもらうのもいいのかもしれないと思います。その際、勉強会は全員が必ず語りか読み聞かせをすることにしたらいいのだと思います。渡す側にもなってもらう事でお互い学ぶ場として勉強会が活性化すると感じています。
雑感 · 2021/12/14
 自分が知っているからといってそれを教えられる訳ではないと感じています。自分がわかったことを伝えようとしてきましたが、なかなか思うように伝えられないことが多いのです。私が対面でやりとりすることが好きなのは、相手の疑問を具体的に掘り下げることができ、そこから説明の糸口が見つかることがあるからです。...
雑感 · 2021/12/11
 何かと気忙しい12月に毎年アカベラのクリスマスコンサートをしている団体に所属しています。本番前は練習の密度も上がるので修正点の指示がそれこそ雨霰のように降ってきて、パンクしそうな状態になります。基本的に指導者をおかずに対等な関係ですが、メンバーの実力差はあるので音楽を作るという点で当然導く人がいるのです。毎年この時期は正直憂鬱です。完成度を上げようと完成形のイメージが明確になればなるほど自分が再現できないもどかしさと指示された音色やピッチを聞き分けられない自分の耳に嫌気が差すことも多いです。そしてなんとかしようと指示を守ることに固執して体をうまく使えなくなり、どんどん求められているところから離れていってしまうという悪循環に陥るのです。  こうやって毎年苦しんで来ていますが最近ストーリーテリングも一緒だと思うようになりました。こうしなければならないということが念頭にあるうちは多分物語を物語として伝え切れていないのだと思います。思えばストーリーテリングをしている時はただひたすら物語に集中しています。歌もストーリーテリングも始めたら終わるまで止まれずにやり直しはできません。聞き手に渡して完成というところも似ています。歌もストーリーテリングも最後はいかに音楽や物語に集中できるかという単純なことなのだと思います。ただストーリーテリングでこの境地になったのは最近のことですし向き合った時間が違うのでこれがわかったからうまくいくというものでもないのだとは思います。物語にせよ歌にせよ楽しむことが大事というのも雑念を払い集中するための方法なのでしょう。答えを知っていてもできるとは限らないということに向き合っているのだと感じています。
雑感 · 2021/12/05
 師走とはよく言ったもので、毎年12月に入ると何がどう変わったということもないはずなのになんとなく忙しい気分になります。アドベントカレンダーも大好きですが最近は毎日カウントダウンしていくのがプレッシャーに感じたりするので純粋に楽しめないのは歳のせいかしらと思ったりしています。また季節のせいにしていいのか迷いますが私自身じっくり本を読もうと思えなくなる時期でもあります。子ども時代のように何もかも後回しにして本に没頭していた頃が懐かしく、やるべきことからやりなさいと親に叱られていたことを思い出します。  思い返してみると没頭することを叱られつつも温かい目で見守られ許される子ども時代は貴重だったのだと思います。子ども時代には子ども時代にしか味わえないことがあります。何もかも忘れて好きなことに没頭し夢中になる体験は子ども時代の醍醐味だと思います。私は偶然それが読書でしたが、没頭するものはなんでもいいのだと思います。このリミッターが外れる感じが一人一人のその後の人生のエネルギー源の一つだと感じるからです。加えて没頭する体験が大事なのであって没頭するものが大事ではないと思います。対象が変化してもその没頭する感覚は活きるからです。思春期を過ぎて自分探しの沼に落ち、抜け出せなくなったりするのは子ども時代に没頭する体験がなかったのではないかと推測しています。答えがあると思い込んで正解を探しているように見えるからです。没頭する体験は我を忘れることで正解を探すこととは真逆の感覚です。子どもたちが没頭することに対して手放しで肯定できなくても仕方のない子ねぇという温かい目を持っていることが私たちができる次世代への応援かもしれません。
雑感 · 2021/12/02
 最近、子育ての仕方は時代によって流行があると感じています。自分が子育てをした時も親世代の子育て観に違和感を感じたことがありましたし、検診や子育て雑誌などからの情報は親世代の時とは違った子育て方法が発信されていたような感じがしていました。そして私は仕事柄子育て世代の人と話をする機会を持ち続けていることもあり、子育て方法というのは流行があるのではないかと思うようになりました。子育て方法としてこうすればいいとかこうすべきだと言われますが子育てに正解はないのではないかと思うのです。どの説も一長一短で、それを実践することで効果が出ればそのために失うものも必ずあります。またそのやり方が合う子どもと合わない子どもがいることも事実です。自分の子育てを振り返ってもあの時あのやり方で良かったと確信が持てるほどのことはない感じがします。言い換えれば違うやり方でも困らなかったのではないかと思うのです。大事なのは子どもと真剣に向き合うことで、悩むこともまたその真剣さの表れなのだと通り過ぎた今では思います。これを当事者に伝えても解決策に悩んでいるのにそんな一般論を言われてもと感じるだろうなあとも思います。ですからこうしたほうがいいという方法を伝えるのではなく大丈夫と言ってあげるのが私たちの世代の役割かもしれないと思います。  おはなしのお姉さんからスタートしおはなしのおばさんと呼ばれ、気がつけばおはなしのおばあさんと言われても怒れない世代になりました。絵本も物語も変わらず私たちを豊かにしてくれています。この豊かな時間をもたらす絵本や物語に子どもたちが親しんでくれると嬉しいという気持ちは昔も今も変わりません。そして忙しい子育て世代の親御さんたちも日常の忙しさをいっとき忘れて絵本や物語を楽しんでほしいと思います。親子で同じ本を楽しむ時間は意外と短いのは通り過ぎないと実感できませんが、それを伝えるのではなく楽しい時間を持つ手助けができたらいいなあと思っています。今の私たちだからこそできることがあると思います。愚直に続けてきたことで自分たちも少しづつ進化しているのだと思います。
雑感 · 2021/11/28
 生活習慣が変わったこともあり、子どもたちは育っていく過程で聞くことの体験が減ってきていると感じています。今の子どもたちにとって動画は珍しいものではなく絵が動かないことに違和感を覚える子がいる程、幼い時から動画に親しんでいます。そのため言葉だけで受け取るという体験をする機会がほとんどないまま、今の子どもたちは視覚からの情報がないと受け取れないというレッテルを貼られている印象です。元々人の能力というのは先天的に持っている力なのか体験することで培っていく力なのか自体くっきり線引きするのは難しいと思います。先天的に持っていた能力もどんな環境で育つかで能力の開花度合いは変わるでしょうし育つ環境で身に付く能力もあるといったように育つ過程で複雑に影響しあうものです。ですから今の子どもたちが聴覚からの情報だけでは受け取れないと思い込むのは早計だと考えています。  私たちがしている読み聞かせもストーリーテリングも聞いて受け取ることの体験という捉え方ができます。聞き手は言葉から自分の想像力を働かせてイメージに変換し、絵本なら描かれている絵で確認しつつ、ストーリーテリングならイメージをつなげて場面として受け取ることで物語を物語として受け取っているからです。イメージを視覚化しリアルに動かし音までつけて動画になっているのだから既にそれで受け取れている子どもたちにそんな体験をさせなくともいいのではないかというご意見もあるかと思います。けれど動画では育たないものがあります。それは自分の想像力を働かせるということです。言葉からイメージを作る作業が動画だと必要ないというか、自分のイメージが入り込む余地がないのです。これは自分が確立しているおとなでは問題ないことだと思いますが子どもにとっては歓迎すべきことではないと思います。拙い自分のイメージよりプロの豊かなイメージを受け取れるのだからとおとなは思いがちですが、自分のイメージが作れてこそプロの素晴らしさが分かるのだと思います。ですからどんなに拙くとも自分のイメージが作れることが大事で、作る練習をしているのが子ども時代なのだと考えています。そしてイメージを作ることが想像力を育てます。想像力は自分を作ります。受け身ではなく自分で考えることからしか生まれないからです。言葉はその想像力の源でもあり言葉だけで受け取ることが自在にできることが人を人たらしめていると感じています。言葉で受け取ることを楽しく体験できるのが読み聞かせでありストーリーテリングだと思います。加えて人間の力は使わなければ衰えてしまいます。その点でも聞く体験は子どもたちにとって必要だと考え読み聞かせやストーリーテリングに取り組んでいます。
雑感 · 2021/11/27
 聞いて理解できるという考え方は、ストーリーテリングだけでなく喋ることで情報を伝えるアナウンサーなどでも意識されることのようです。そしてアナウンス原稿の字面を正確に言えたからといって内容が視聴者に伝わるとは限らないと言われています。何のことか話している本人が理解していないと言葉だけが上滑りするからです。同じニュースでも読み手によってわかりやすいと感じたり、なんのことかさっぱりわからないと思ったりするのは、発信者側の内容の理解度と比例すると考えると納得できます。ただ画像が使えるので視覚的に補強することができますから、それほど理解に努めなくても仕事としてはこなせます。ですから内容を理解して伝える能力を磨いている人とそうでない人が出ているのだと思いますし、聞く側もその違いを意識しない人も多いのかもしれません。  けれど時代を遡るとラジオが主流の時代がありました。視覚的に補強できませんからアナウンサーも理解して伝えることが当たり前だったでしょうし、聞く側も聞くことが日常的だったため意識せずに聞く力が磨かれていたように思います。ですからラジオが生活に根付いていた時代を過ごした世代の方は押し並べて聞くことに対する感度が高いと思います。そして実はこの感覚があったことが子どもの本を作る際に効果的に働いたのではないかと想像しています。ラジオ世代の作家、訳者は日本語の能力が高く言葉のセンスが抜きん出ていただけでなく聞くことに対する感度も高かったために完成度の高い子どもの本ができたのではないかと考えています。今新しく翻訳する人たちは当然ラジオ世代ではありません。新訳が旧訳に歯が立たない感じになることがあるのは、この聞く力の差もあるのではないかと推測しています。子どもの本、特に絵本は自分で読むだけでなく読んでもらうこともあるため聞いて理解できるのかという視点が意外と大事なのだと思います。  私たちはストーリーテリングをすることで、この聞く力を育もうとしています。そこで語り手である私たちも聞いて理解することに敏感になりたいのです。耳だけで内容を受け取ることは聞く力を磨くことになります。ストーリーテリングを聞く時だけでなく、普段の生活でも聞いて受け取ることに注目してみるのも大事だと考えています。

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