ストーリーテリング

 このブログは私の感覚としては、おはなしざしきわらしの会のメンバーに向けて書いています。おはなしざしきわらの会の方向性や何を目指しているかを言葉で確認し整理したいという思いがあるからです。ネットはたくさんの人の目に留まるように凌ぎを削っている社会ですから、何の宣伝もしていないこのブログは仲間内の人の目にしか留まらないとタカを括っていた部分もあります。そして書いてきた内容はおはなしざしきわらしの会でストーリーテリングをしていることや読み聞かせを聞いたことがあることを前提にしていることに会のメンバー以外の人に質問をもらって初めて気がつきました。そして聞いたことのない人に言葉を重ねてもうまく内容が伝わらない感じは、盲目の人が直接象に触れて象の姿を説明する逸話のようだと感じました。触れた部分によって印象が違うので象の全体像がうまくつかめないのと一緒で聞いたことがなければストーリーテリングの全体像がつかめないのは当たり前だと思います。  そして1年間これだけストーリーテリングの必要性を説いたからには聞いたことのない人に聞いてもらうことも大事なのではないかと思うようになりました。ストーリーテリングは下手な説明よりは聞いて確かめたほうが伝わることも多いと思います。  私は書くことが苦手だと思ってきましたが、読んでくれる人、待っていてくれる人がいたので書き続けることができました。同じように聞きたい人がいると考えたら苦手なおとなの聞き手にも語れる気がしてきました。そして私の師匠である藤井先生は勉強会で必ず語ってくださっていたことを思い出しました。藤井先生に「あなたは本番に弱いわねぇ」と嘆かれるタイプの語り手の私としては語ることは必要に迫られてという部分があり自分の語りは藤井先生のように手本にはならないと思い込んできました。けれど書くことと同様に気負わずに語ることで得られるものもあるのだと今年一年の経験から思います。読み続けてくれた方々に感謝しつつ書くペースを落として、その分今度は定期的に語ることに挑戦しようかなと思います。来年もお付き合いくださると嬉しいです。
 私がストーリーテリングが好きなのは、言葉で伝え、言葉で受け取る行為が好きだからかもしれないと思います。言葉だけで物語の世界をその場にいる人たちと共有する満足感は、他のことでは得ることができない特別なものだと感じています。物語の世界を楽しむなら読書でも満足感が得られますが、肉声にのせて多分二度と同じ形では受け取れないだろう特別な一回を受け取るのはストーリーテリングだけだと思います。  読書は物語と自分が向き合って物語の隅々にまで光を当てるようなものだと感じています。ですから繰り返し読むことも楽しみのひとつで特別な一回というようなビリビリした緊張感はありません。むしろ腰を据えてどっしりと浸るものだと思います。  けれどストーリーテリングは2度目はありません。たとえ同じ話を同じ語り手が語ったとしても聞き手が変わると同じテキストで同じに語っているつもりでもそっくり同じにはならないのです。実際2回続けて同じ話を語ることがありますが、微妙に感じが変わりストーリーテリングは聞き手と作っていることを自覚します。また語り手の今が反映されるので人生経験や体調や実生活での感情の揺れが見え隠れすることがあります。このように人としての揺らぎや変化が滲み出ることが肉声の魅力だと思います。だからこそ同じ話を何度聞いてもおもしろいのだともいえます。  そしてこの一回きりという儚さもストーリーテリングの魅力で、だからこそ一回一回真剣勝負なのだと思います。留めておけずに消えてしまうこと、終わってしまうことに取り組むことに無力感を感じたことはありません。録音された物語を聞くのは集中するのに努力が要りますが生で聞くと何ともいえない緊張感が物語の推進力になり物語の世界へ誘われると感じるので、たとえ留めて置けなくても生で語ることが重要だと考えているからです。肉声で語られることで聞き手は人を感じ、言葉の力を感じます。そして人と言葉で同じ世界を共有する行為は安心感をもたらします。人は一人では生きられないと言いますが一人ではないことを感じさせてくれることも私がストーリーテリングが好きな理由の一つかもしれません。
 私は昔話が大好きでどうしてこんなに惹かれるのだろうと考えることがあります。昔話は世界中にあり文化や生活様式に共通点がなくとも自然発生的に生まれ口伝えで伝承されてきています。そしてその地域でしか楽しめないものではなく、知らない土地の昔話でも時代背景や風習が分からなくてもちゃんと楽しめるのです。...
 私は混声アンサンブルNOVAというコーラスグループに所属しています。ここでは歌う時に歌詞を音にのせる方法として情景を思い浮かべるとか心情をのせることを求められます。歌っている側が考えている事が歌に表れ聞き手に伝わるからというのが理由です。これはストーリーテリングと同じですが、ストーリーテリングとは決定的に違う部分があって最初とても戸惑いました。ストーリーテリングでは必要としない情感も求められるからです。  歌は物語と違ってメロディーと結びついて心にダイレクトにコンタクトするものです。叙情的な作品も多いですし、理解することを飛び越して心を揺さぶられることも多いです。それは歌が人々の祈りであり叫びであり慰めであり、物語とは別ルートで人類の歩みと共に脈々と息づいてきた物だからだと思います。そのため歌う側の気持ちが問われ歌詞から心情を呼び起こすことが必要なのだと思います。けれどこれはストーリーテリングでは必要ないどころか物語を壊しかねない行為です。そのため忌避感が強く、ストーリーテリングとは別物だと分かっていてもできる気がしませんでした。そして歌のやり方に染まっていくとストーリーテリングに悪影響が出そうな気もして怖かったのです。  けれど歌で気持ちをのせることができるようになると、とても歌いやすくなりました。歌うことはメロディーを紡ぐことです。気持ちとメロディーは親和性が高く作曲者の意図を再現しやすくなる感じでした。譜面に書いてある様々な指示記号がただの指示記号でなくなり音楽としてイメージできるようになるといったらいいでしょうか。  そして同じ事がストーリーテリングでも言えることに気が付きました。私たちにとってテキストは指示書であり物語を紙に閉じ込めた物です。これを語ることによって物語として本来の形にして渡す事がストーリーテリングなのだと思います。イメージを固めるのは物語の展開が見えるようになるので歌で気持ちをのせることと同様に物語を物語たらしめます。物語は登場人物の心情や気持ちで進む物ではなく登場人物の言動が推進力です。歌のように心と心がつながるのではなく語り手と聞き手の双方が物語の展開をきちんと追える事が物語の完成形ですからイメージを固める事で見えるようにしているのだと思います。そして受け取った物語を心のどこに住まわせるかを受け取った側が自分で決められる事がストーリーテリングの特徴だと思います。私たちがしていることは心を揺さぶることではないのだと思います。
 物語がなぜ私たちを魅了するのか、何が楽しいのかを表すのにぴったりな言葉を探しているのですが、なかなか思いつきません。物語によっても受け取った人によっても楽しさを表す言葉が違うからです。共通の部分をすくい上げる言葉を捻り出すとしたら「物語が物語であるから」ということでしょうか。物語の世界は現実世界を投影する部分があったとしても同一ではありません。私たちは物語の中だからこそ、何が起こっても安心して物語の中に留まる事ができます。自分の安全が確保されているからです。また物語の世界に入ることは自分という存在を手放すこととは違うのでそこで起こる事に集中でき心動かされたり考えさせられたりが自在にできます。そして物語は自分を写す鏡のような作用もあり現実世界で考えている事が炙り出され自分が何を考えているのかを改めて自覚することもあります。そのため大人の方が物語から受け取るものが多いのかもしれません。おとなになると善悪すら単純な基準ではなくなり、立場によって見えるものが変わってくることを体験的に知っています。そのため物語自体をより複雑に考える傾向が強くなります。けれど子どもたちはもっと単純に物語を受け取っていますし、もっと言えば物語の世界があることを覚えていく時期なのだと思います。  ですからストーリーテリングや読み聞かせは、子どもたちが安心して物語の世界に入り、そこに留まる時間を作っているのだと思います。物語という現実とは別の世界がありその中で起こることを見聞きすることを楽しむ体験をしてもらっていると考えるとしっくりします。おはなしざしきわらしの会で私たちは物語の世界と現実世界との境界線を子どもと一緒に越え、そして一緒に現実社会に帰ってくる道案内役としてストーリーテリングや読み聞かせに取り組んでいるとも言えます。道案内役としてその物語を物語として渡すことは単純なようで意外と難しいものです。物語の世界をすんなりと受け取ってもらえるには語り手に迷いがあると物語がすっきり伝わらないからです。語り手はやはり物語を物語として受け取る経験を積むしかないと思っています。
 物語を聞いて受け取る事が上達すると物語を聞く事がとても楽しくなります。特に自分は語らなくていい日に聞くと物語に集中できてより楽しいと思う事があります。けれど聞くことと語ることは表裏一体で切り離せないものではないかと感じるようになりました。実は聞き手であると同時に語り手であることが非常に重要なのだと思います。おはなしざしきわらしの会では読み聞かせの際、「読み手は一人目の聞き手」という言い方をしますがこれはストーリーテリングでも同じ事が言えます。  物語を語るというのは物語の展開を伝える役です。聞いて受け取りやすくするためにイメージとして登場人物や場面を設定しその行動や状況が変化していく様を言葉で伝えているのがストーリーテリングの語り手です。ですから自分に登場人物を投影して役になりきったりはしません。なりきると情景や他の登場人物が無になり聞き手に伝わらなくなるからです。同じように映像でよくみるアングルを変えるとかアップにするとかの視線の変化をイメージすることはあまりありません。変化させると語っている側も聞いている側もどこにいるのかがわかりにくくなるからです。伝える役だからといって違うことをするのではなく同じものを見て展開を共有しているという点で語り手と聞き手は同じ物語世界に留まれるのだと考えています。  ですから物語を楽しむ感覚としては聞くことと語ることに大きな差はありません。聞くことだけに特化してしまうと評論家のような聞き方になりがちです。語られたものを物語として受け取ることは語り手が見ているイメージを受け取ることなので優劣がつくものではないと思います。勉強会でどう聞こえたかを伝え合うのは物語として成立しているのかを確認しあっているのであって、個々のイメージの豊かさを競っているわけではありません。ですから聞くことと語ることを両方楽しんで欲しいと思います。
 ストーリーテリングを聞いた事がない人にストーリーテリングの説明をするのは難しいと感じています。これは読み聞かせでも朗読でも一緒です。どれも聞いて受け取るものなので、聞いた経験がないと伝わり方の話をされても分からないのは当たり前だと思います。...
 東京子ども図書館の『おはなしのろうそく』がストーリーテリングのテキストとしてハズレがないのは、耳で聞くことを熟知している人たちが関わっているからだと思います。一方数ある昔話の本をストーリーテリングのテキストとして使った時に聞いて受け取りにくいと感じる事があります。これは昔話の再話者が民俗学や文学などの研究者である事が多いからだと考えています。物語がどう聞こえるかよりも伝承の話を記録するところに比重が置かれたり、学者故に翻訳の正確さに拘ったりすることで聞く物語としては味わいが損なわれる事があるからです。  ストーリーテリングはテキストを選ぶ事が重要だと言われるのはこの問題があるからだと思います。語った時にどう伝わるのかはテキストの言葉の選び方や描写の語り口で印象が変わります。耳で聞いてぱっとイメージできる言葉の使い方は聞き慣れていないと判断がつきません。黙読した時にイメージしやすい言葉づかいと聞いた時にイメージしやすい言葉づかいは同じではないのです。実際東京子ども図書館のおはなしのろうそくもテキストとして作られた薄い本と読書することを前提として作られた愛蔵版おはなしのろうそくでは言葉づかいが違うものがあります。愛蔵版は薄い本を2冊づつ合本にし挿絵を増やしただけだと最初は思っていましたが、ぴったり同じではないのです。こんなところでも聞くためにふさわしい言葉と読むためにふさわしい言葉は微妙に違うことを窺い知る事ができます。  私たちは語り手として、聞いて受け取ることがスムーズにいく言葉づかいや表現に敏感になる必要があります。語り手が聞いて物語を受け取ることと読んで物語を受け取ることの違いを知って耳を鍛えることは語り手としてレベルアップすることだと考えています。
 語り手が物語を丸ごと受け取るための聞き方を磨くために、長い話を聞くことが有効だと考えています。短い物語ではおとなであるために「集中力が切れてしまう」「物語についていく事が苦痛になる」「余計なことを考え出す」といった物語を丸ごと受け取れていない症状を自覚することは少ないのですが長い話では聞き方の問題が炙り出されるからです。...
 オリンピックの種目になった「スポーツクライミング」という競技があります。「スポーツクライミング」は人工壁に配置されたカラフルな「ホールド」を手がかり足がかりとして、素手とクライミングシューズのみで壁を登りスピードや高さを競う競技です。この「ホールド」の位置を決め選手の体型などで難易度が左右されないようコースを決めるのが「ルートセッター」です。  この「ホールド」の配置をする「ルートセッター」と語り手の役割は似ていると思います。語り手が何をしているのかをイメージを固めるとか丸ごと渡すとかいう言い方で説明してきましたが「ルートセッター」で説明するとわかりやすいのではと思いつきました。登る壁が物語でその物語を辿るためには全体のホールドの役割をする手がかりが必要だと感じるからです。聞いて受け取りやすいストーリーテリングと受け取るのにエネルギーが必要なストーリーテリングの違いはこのルートを示す事ができているかの違いではないかと思うのです。物語という豊かに茂った大木の枝葉を整理して幹を見せるという説明がスポーツクライミングのホールドをイメージしてもらうとより視覚的にわかりやすいのではないでしょうか。  そして壁を登るのはあくまで選手でルートセッターではないように、ストーリーテリングでも物語を辿るのは聞き手であり、語り手はホールドを配置しルートを示す役割なのだと思います。イメージを固めて物語の世界を見えるようにすることは登るべき壁としての物語の世界を作ることだけに留まらずに、辿るべきルートを渡すことでもあるのだと言えます。ですからルートセッターがクライマーでもある事が多いように、ストーリーテリングをするには物語を聞いて受け取ることの楽しさを熟知している必要があると考えています。物語を丸ごと渡すには聞いて受け取ることが当たり前にできるようにならないと難しいのだと思います。

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