絵本 · 2022/01/09
 図書館へ行ったらいつも新刊の棚を見ることにしています。公共図書館の場合、分類されて書架に並ぶと目当ての本は見つけられますが、新しい本を棚から探すのは難しいからです。先日いつものように新刊の棚から見つけた絵本に今までにない感想を持ちました。  気になったのは『きょうも のはらで』エズラ・ジャック・キーツ/え 石津 ちひろ/訳 好学社...
雑感 · 2022/01/01
 宮沢賢治は『春と修羅』を自費出版した際に、これは「詩」ではなく「心象スケッチ」だと述べています。人間の心象を描くということは個人的なものを越えて普遍的なものをスケッチすることだと賢治は考えていたようです。賢治の「心象スケッチ」に対する考え方は『春と修羅』の序を読むと賢治の思いが伝わります。その中で私が特に惹かれるのは「すべてこれらの命題は心象や時間それ自身の性質として第四次延長のなかで主張されます」という結びの言葉です。賢治の文章は難解な表現が多いですがここでいう第四次は時間のことで、賢治は自身の心象スケッチは現世だけに受け入れられるものではなく、四次元で生き残ることができ、どの時代においても新たに生まれることができるような芸術であり広い宇宙とつながる自分の心を言葉で書き表したという考えだと思います。  『春と修羅』は「永訣の朝」が有名で確か教科書に載っていたような記憶があります。ヒリヒリとするような痛みと行き場のない悲しみで『春と修羅』はその一作を読んだだけにも関わらず宮沢賢治に長い間苦手意識を持つほどのインパクトでした。童話と言われる作品も有名な作品が数多くあり、音を感じさせ耳に残るような印象的な美しい文章で綴られています。でも、それがあまりにも真っ直ぐで自分に厳しい賢治の眼差しを余すことなく伝えるので読み手自身の曖昧さをも許さないものと受け取ってしまい、やはり苦手だと思っていました。けれど今読み直してみると賢治の純粋さは眩しく、他者を責めるものではないことがわかります。そして心象スケッチに代表される賢治の普遍的なものという感覚は昔話に通ずるものがあると感じています。賢治のような作家はその才能によって時代を越えていくのでしょうし、昔話は関わった個々には才能というほど突出したものがなくてもたくさんの人が時間をかけて磨き出したものとして時代を越えていくのでしょう。そのたくさんの連なった人の一人として私たちは語っているのだともいえます。『春と修羅』のなかに「水汲み」という作品があります。宮沢賢治が実際農作業に勤しんでいたことを思い出させる作品で、文中に「水を汲んで砂にかけて」というフレーズが何回か出てきます。この果てしない繰り返しの感じが私たちの取り組んでいることに似ています。ささやかな取り組みですが物語を楽しむ子どもたちの未来を思って水を汲んで砂にかけるように私たちはストーリーテリングをしているのかもしれません。
 このブログは私の感覚としては、おはなしざしきわらしの会のメンバーに向けて書いています。おはなしざしきわらの会の方向性や何を目指しているかを言葉で確認し整理したいという思いがあるからです。ネットはたくさんの人の目に留まるように凌ぎを削っている社会ですから、何の宣伝もしていないこのブログは仲間内の人の目にしか留まらないとタカを括っていた部分もあります。そして書いてきた内容はおはなしざしきわらしの会でストーリーテリングをしていることや読み聞かせを聞いたことがあることを前提にしていることに会のメンバー以外の人に質問をもらって初めて気がつきました。そして聞いたことのない人に言葉を重ねてもうまく内容が伝わらない感じは、盲目の人が直接象に触れて象の姿を説明する逸話のようだと感じました。触れた部分によって印象が違うので象の全体像がうまくつかめないのと一緒で聞いたことがなければストーリーテリングの全体像がつかめないのは当たり前だと思います。  そして1年間これだけストーリーテリングの必要性を説いたからには聞いたことのない人に聞いてもらうことも大事なのではないかと思うようになりました。ストーリーテリングは下手な説明よりは聞いて確かめたほうが伝わることも多いと思います。  私は書くことが苦手だと思ってきましたが、読んでくれる人、待っていてくれる人がいたので書き続けることができました。同じように聞きたい人がいると考えたら苦手なおとなの聞き手にも語れる気がしてきました。そして私の師匠である藤井先生は勉強会で必ず語ってくださっていたことを思い出しました。藤井先生に「あなたは本番に弱いわねぇ」と嘆かれるタイプの語り手の私としては語ることは必要に迫られてという部分があり自分の語りは藤井先生のように手本にはならないと思い込んできました。けれど書くことと同様に気負わずに語ることで得られるものもあるのだと今年一年の経験から思います。読み続けてくれた方々に感謝しつつ書くペースを落として、その分今度は定期的に語ることに挑戦しようかなと思います。来年もお付き合いくださると嬉しいです。
 私がストーリーテリングが好きなのは、言葉で伝え、言葉で受け取る行為が好きだからかもしれないと思います。言葉だけで物語の世界をその場にいる人たちと共有する満足感は、他のことでは得ることができない特別なものだと感じています。物語の世界を楽しむなら読書でも満足感が得られますが、肉声にのせて多分二度と同じ形では受け取れないだろう特別な一回を受け取るのはストーリーテリングだけだと思います。  読書は物語と自分が向き合って物語の隅々にまで光を当てるようなものだと感じています。ですから繰り返し読むことも楽しみのひとつで特別な一回というようなビリビリした緊張感はありません。むしろ腰を据えてどっしりと浸るものだと思います。  けれどストーリーテリングは2度目はありません。たとえ同じ話を同じ語り手が語ったとしても聞き手が変わると同じテキストで同じに語っているつもりでもそっくり同じにはならないのです。実際2回続けて同じ話を語ることがありますが、微妙に感じが変わりストーリーテリングは聞き手と作っていることを自覚します。また語り手の今が反映されるので人生経験や体調や実生活での感情の揺れが見え隠れすることがあります。このように人としての揺らぎや変化が滲み出ることが肉声の魅力だと思います。だからこそ同じ話を何度聞いてもおもしろいのだともいえます。  そしてこの一回きりという儚さもストーリーテリングの魅力で、だからこそ一回一回真剣勝負なのだと思います。留めておけずに消えてしまうこと、終わってしまうことに取り組むことに無力感を感じたことはありません。録音された物語を聞くのは集中するのに努力が要りますが生で聞くと何ともいえない緊張感が物語の推進力になり物語の世界へ誘われると感じるので、たとえ留めて置けなくても生で語ることが重要だと考えているからです。肉声で語られることで聞き手は人を感じ、言葉の力を感じます。そして人と言葉で同じ世界を共有する行為は安心感をもたらします。人は一人では生きられないと言いますが一人ではないことを感じさせてくれることも私がストーリーテリングが好きな理由の一つかもしれません。
おはなし の会 · 2021/12/29
 年の瀬も押し迫って、じっくり本を読む感じではなくなっています。おとなになってよかったと思うのはやりたいことを自分で決められるので別に読みたかったらやるべきことを後回しにすることも可能ですが、さすがに落ち着いて読む気分にはならない時期です。そこでこんな時は落ち着いたら何を読もうか考えたりしています。どれにしようかと迷うこともおとなの読書の楽しみだと思います。けれどこれはおとなの感覚なのだと思います。たくさん読んできたからこそ生まれる感覚だと思うからです。  そしてこのおとなならではの読書の楽しみを子どもに当てはめてしまうことがあります。おとなはどれを読もうか迷うほど読む前から自分の好みの本を見分けているので子どもも自分の好みがわかっているような錯覚に陥ってしまいがちなのです。けれど子どもたちはおとなに比べて圧倒的に物語との出会いが少なく自分の好みを自覚するほど物語に親しんでいません。ですから読み聞かせで絵本を選ぶ際に子どもが喜びそうというところに特化していくと物語に親しんで欲しくて読んでいるはずが、知らず知らずに直接的な刺激を与える役になっていってしまうことがあります。子どもに求めるのはおもしろそうだと判断できることではなく、実際聞いてみておもしろかったという体験が重要なのだと思います。この聞いてみておもしろかったという体験の積み重ねが物語に対して自分の好みを自覚していく入り口です。  おはなしざしきわらしの会がなぜ読み聞かせをしているのか、なぜストーリーテリングをしているのかは、子どもたちに物語を物語として受け取ってもらい、物語の楽しみ方を体験的に知って欲しいと考えているからです。本は実際読んでみないと物語としてどうなのかを判断できないものです。読み聞かせやストーリーテリングをする私たちは読んで確かめたものしか子どもたちに渡していません。ですから子どもたちの顔色を伺うことなく物語として楽しめるものを読んだり、語ったりしていくことが大事だと考えています。私たちは物語の楽しさを知っています。これを活かして絵本を選びストーリーテリングをしていけるといいなあと思っています。
 私は昔話が大好きでどうしてこんなに惹かれるのだろうと考えることがあります。昔話は世界中にあり文化や生活様式に共通点がなくとも自然発生的に生まれ口伝えで伝承されてきています。そしてその地域でしか楽しめないものではなく、知らない土地の昔話でも時代背景や風習が分からなくてもちゃんと楽しめるのです。...
 私は混声アンサンブルNOVAというコーラスグループに所属しています。ここでは歌う時に歌詞を音にのせる方法として情景を思い浮かべるとか心情をのせることを求められます。歌っている側が考えている事が歌に表れ聞き手に伝わるからというのが理由です。これはストーリーテリングと同じですが、ストーリーテリングとは決定的に違う部分があって最初とても戸惑いました。ストーリーテリングでは必要としない情感も求められるからです。  歌は物語と違ってメロディーと結びついて心にダイレクトにコンタクトするものです。叙情的な作品も多いですし、理解することを飛び越して心を揺さぶられることも多いです。それは歌が人々の祈りであり叫びであり慰めであり、物語とは別ルートで人類の歩みと共に脈々と息づいてきた物だからだと思います。そのため歌う側の気持ちが問われ歌詞から心情を呼び起こすことが必要なのだと思います。けれどこれはストーリーテリングでは必要ないどころか物語を壊しかねない行為です。そのため忌避感が強く、ストーリーテリングとは別物だと分かっていてもできる気がしませんでした。そして歌のやり方に染まっていくとストーリーテリングに悪影響が出そうな気もして怖かったのです。  けれど歌で気持ちをのせることができるようになると、とても歌いやすくなりました。歌うことはメロディーを紡ぐことです。気持ちとメロディーは親和性が高く作曲者の意図を再現しやすくなる感じでした。譜面に書いてある様々な指示記号がただの指示記号でなくなり音楽としてイメージできるようになるといったらいいでしょうか。  そして同じ事がストーリーテリングでも言えることに気が付きました。私たちにとってテキストは指示書であり物語を紙に閉じ込めた物です。これを語ることによって物語として本来の形にして渡す事がストーリーテリングなのだと思います。イメージを固めるのは物語の展開が見えるようになるので歌で気持ちをのせることと同様に物語を物語たらしめます。物語は登場人物の心情や気持ちで進む物ではなく登場人物の言動が推進力です。歌のように心と心がつながるのではなく語り手と聞き手の双方が物語の展開をきちんと追える事が物語の完成形ですからイメージを固める事で見えるようにしているのだと思います。そして受け取った物語を心のどこに住まわせるかを受け取った側が自分で決められる事がストーリーテリングの特徴だと思います。私たちがしていることは心を揺さぶることではないのだと思います。
雑感 · 2021/12/26
 NHKのラジオ番組「ひるのいこい」をご存知でしょうか?お昼12時台に放送されているNHKラジオの長寿番組です。番組冒頭のテーマ曲といいアナウンサーの語り口といい牧歌的な雰囲気はいかにも日本の原風景といった感じで耳にすればご存知の方も多いのではないかと思います。この中でリスナーからの手紙をアナウンサーが読み上げるコーナーがあります。この読み方はとても特徴的です。気持ちを込めて読むということのお手本のような読み方で感動的に読み上げられます。けれどあまりに感情がこもりすぎてエピソードの全体像を掴むのに苦労するので個人的には苦手です。それこそ70年近く続いた番組ですからこの読み方が支持されてきた歴史がありますし、読まれる手紙も情感をこめやすい文章が選ばれていることを考えると、リスナーもこの読み方を前提に文章を書いていらっしゃるのではないかと思います。  ただこれはおとなの楽しみ方だなあと思います。聞く力が十分備わっていて余力があるからこそ行間とも言える感情を際立たせて読んでも内容が受け取れ、なおかつ感動できるのだと思います。子どもに語っている私たちが誰がどこでどうしたという物事の流れに集中しそこを追うことに徹しているのは、聞いている側が全体像が捉えやすいからだという事が「ひるのいこい」での読み方と比べるとよくわかります。音読は目的によって読み方が大きく変わります。読み方は多種多様でどんな読み方もできるからこそ、自分が何を伝えているのかを意識する事が大事なのだと思います。
雑感 · 2021/12/25
 おとなはとかく子どもを守り導かなければならないと本能的に思う部分があります。それはひとりでは生きられない形で生まれ落ちる人間だからこそ備わっているのだと思います。けれど守り導こうとすることはいついかなる時も効果を発揮するかというとそうでもないところが難しいのです。親との境目が薄いと思うほど親に助けられ委ねられている時期はずっと続くことではありません。親と子の境目は徐々にはっきりし、おとなの保護や配慮は必要なのに守られている事をあからさまに感じるのを嫌うという難しい時期を過ごしながら子どもはおとなになっていきます。自分がおとなになって見るとおとながどれだけ譲歩し見守ってくれていたのかが見えてきますが、干渉されることを極端に嫌い、おとなのやることなすこと気に入らないという時期はおとなになるために必要な時間なのだと思います。そして自分が自分であることを自覚し自分を作り上げるために干渉されないと思える時間がある事は子どもにとってとても重要だと思います。  実生活の子どもは当たり前ですが無力な部分が多く、否応なしに保護されるしかないところがあります。そんな中で読書する時間は物語の世界に入ることで自分だけで過ごす事ができます。物語の中にいるときは自分は誰の助けもいらない自分でいられます。ですから自分で読めることは子どもにとってとても重要なことだと考えています。  そして私たちがしているストーリーテリングや読み聞かせは、その読書への扉を示し扉を開けるお手伝いをすることだと考えています。自分で読むことの前倒しとして子どもがひとりで物語を受け取る体験ができる事を目指して私たちは語ったり読んだりしています。大事なのは読み方ではなく物語であり絵本であるという考え方のベースはそこにあります。読書の楽しみを知っているおとなとして誰にも干渉されずに自分で受け取る楽しさを子どもたちに知って欲しいと考えています。
2021/12/24
 ストーリーテリングをする際、日常で使わない単語が出てくることを心配する人がいます。けれど聞いて伝えられてきた昔話は、知らないものが出てきても物語の展開からは大きく外れないような工夫がされているのだと最近思います。例えば囲炉裏などイメージできる子は今ほとんどいないでしょう。けれど物語に必要な形でイメージできれば正確な囲炉裏が分からなくても物語としては伝わるように出来ています。具体的な例では「三枚のおふだ」の和尚さんと鬼婆のやり取りで、餅を焼いていた和尚さんが囲炉裏の縁を叩いてという件がありますが囲炉裏が分からなくても餅が焼けるようなところの近くで叩いて音が出るのだという事がわかれば物語にはついていけます。「牛方とやまんば」も同じです。囲炉裏の側にどっかと腰を下ろして餅を焼こうか寝ようかと考えるやまんばですから餅が焼けるような場所で暖かい事がわかれば話にはついていけます。またこの世のものではないものたちである「やまんば」「小人」「妖精」などもその言動から人でない事がわかるようになっています。  そしてこの知らないものやイメージしにくいものが出てくる事が聞き手の集中力を高めるのだと感じています。それ何?と思う事で好奇心を刺激され頭が働きだすのだと聞き手の子どもたちを見ていて思います。考える余地があることこそ読書の醍醐味であり聞く読書としてストーリーテリングをしている理由です。ですから正確にイメージさせようとして言葉を足す必要はなく聞き手も説明して欲しいわけではないことを語り手は理解する必要があるのだと最近思います。先日もロシアの昔話の「マーシャとくま」を2年生に語っている時「くまが外へ出ていくとマーシャは大急ぎでつづらに潜り込み頭の上におまんじゅうのお皿をのせました」のところで、ポツリと「どうやって?」と思わず口からでた子がいました。それを聞いてどんなつづらとどんなお皿をイメージしたのだろうと微笑ましくなりました。そしてお話はどんどん進んでいくのでそれ以上拘らずにとにかくつづらってものにマーシャとおまんじゅうが入ったのねという形でちゃんとついてきていました。この感じがストーリーテリングを聞くときのスタイルなのだと思います。自分なりに受け取る事が大事で正確に物を思い浮かべられることや知っていることはさほど重要ではありません。ロシアのつづらを調べようと思えば簡単に画像で確認できる時代です。けれど物語の受け渡しに必要なのはロシアのつづらの材質でも大きさでもなくマーシャが潜り込みくまが担いでいける物だということです。ストーリーテリングを聞く体験を重ねたいのはこの感覚を掴んで欲しいからです。そして子どもは聞き慣れてくると物語についていこうとしてこの感覚を身につけていきます。ストーリーテリングは語り手も聞き手も物語を聞く事が大事です。

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