ひとりの時間

 ストーリーテリングが、読書に近いと感じるのは、物語を聞くことで、物語と聞き手が一対一で向き合っていられるからではないかと思います。

 語り手が語っているのは、物語の展開で、聞き手がどう感じるかをリードしているわけではない事と、聞き手が何人いても、どう聞くかは個人に任されていることから、そう感じています。

 物語をどう感じているかは、個人に任され、どう感じているのかを出すか出さないかも本人次第で無理に引きずり出されないことは、読書にとって重要な点ではないかと思っています。物語と向き合うひとりの時間は、活字を追っていなくても読書している事に近いと思います。

 おはなし の会の直後に、感想を聞かないで欲しいというのも、感じたことをすぐ適切に言葉にできないので、おもしろかったに集約されてしまい、もったいないからという言い方もできますが、本と向き合ったひとりの時間を守って欲しいからという言い方もできるのではないかと思います。

 そしてこのひとりの時間の感覚が、ふとした拍子に部分的に思い出したり、もう一度読んでもらいたい、読んでみたいという、物語に浸ることにつながっていっているような気がします。

 また読書する姿を見せる、親が読書が好きな家庭で育つと本が好きになるといった言われ方がされる時、読書が好きなら、物語と個人の関係性を本能的に捉えていて、子どもであっても不用意に踏み込まず、本人が物語に浸る時間を見守ることが無意識にできることも含まれているではないかと思います。

 集団に語っているため、意識することがあまりないかもしれませんが、聞き手は物語とひとりで向き合っていることを、語り手は視線を合わせながら、感じていけたらと思います。

 そして語る時以外でも、物語と向き合うひとりの時間を、私たちが日常の中に組み込んでいけたら、ストーリーテリングがより豊かになると思います。