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見分ける力

 絵本はおとなが読んでもおもしろい、子ども騙しのものではないという認識が広まって、絵本の世界が豊かになったと感じています。

 ただ以前も取り上げたように、作家は、自分の中にあるものを外に発信する手段として絵本という媒体を使っているという感覚がどんどん強まっていると感じています。

 アメリカの絵本の黄金期に作られた絵本の出版経緯を見ていると、作家と編集者と図書館員が影響しあっている感じがします。作家任せではなく、かと言って販売目的でもなく、読者を意識したものが作られていたと感じます。

 三者のバランスは、それぞれがそれぞれの専門性を尊重しあい、どの分野でも妥協せずに、落とし所を真剣に考えたことで生まれたように思います。

 今との大きな違いは、手間隙を惜しまず時間をかけたという点かもしれません。それだけ時間をかけることが許されたとも言えます。

 そして子どもはおとなが思うより力があり、子どもたちが大人の本棚から自分たちに魅力的な本を見つけ読み出したことで児童文学というジャンルが生まれたと言われています。

 子どもの力を侮るつもりはありません。けれど、今は逆におとなの助けがいるのではないかと思っています。

 出版事情が変わった現状では、子どもたちが自分で探すには絵本が多すぎることと、読んでもらうことが入り口となる絵本は、児童文学のように子どもだけで出会わないからです。

 手助けをする際、私たちに必要なのは、アメリカの黄金期の図書館員の視点だと思います。それは、子どもたちの発達段階と絵本をどう受け取っているのかを理解し、絵本を見分けていく力だと思います。

 この見分ける力は、どう感じるか、何を受け取るかという感想に踏み込まないことが大前提なのではないかと感じています。

 先日、五味太郎さんがインタビューで『きんぎょがにげた』を、おとなが自分探しの本として読んでくれているという話をされていました。

 このように、作品は世に出された時点で、作家の手を離れて、読者のものになります。どう感じるかに縛られないことが読書の楽しみでもあります。

 そのため見分けることは、子どもが受け取れる内容か、作りかという点に絞って考える必要があると思います。

 ただ受け取れるというのは、理解できるということとも微妙に違う様な気がします。言葉にしにくいのですが、あえて使うなら共感できるとか、違和感がないことかなと思っています。