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集団を感じる

 私たちの聞き手は、個人ではなく集団です。絵本の場合の集団は、その絵本が見えるかどうかで集団の人数が決まります。この絵本だったら何人くらいまで楽しめるかという判断をしてきました。けれどコロナ禍で身を寄せ合って聞くことができなくなってみると、人数というより空間の広さと言い換えてもいいのかもしれないと思うようになりました。おはなし の会をする場所という意味ではなく、子どもたちの占める空間です。考えてみると以前から、人数といっても、低学年と高学年では同じ人数でも違う感じがすると思っていましたが、この辺も空間の感覚だったのだと思います。ストーリーテリングは、声が届くかで集団の人数が決まります。声の分、絵本より融通が効く感じで身を寄せ合っていなくても成り立つ感じがしています。

 集団と個人は違うということを、なぜ繰り返し言っているかというと、集団の捉え方は、経験で培われると感じているからです。そして集団に物語を渡す場合、個々の反応に引きずられすぎると、語り手のバランスが崩れることがあります。聞き手の反応は、語り手の追い風にもなる部分があるので、頷くなど目立つ反応をしている子どもを基準に物語を渡したくなったりします。また気が散っている子が気になって、そこに照準を当てて渡したくなったりします。

 けれどこれは、あまり望ましいことではないと感じています。聞き手の反応は感じる必要がありますが、個々に対して反応すると物語が歪になるのだと思います。あくまで集団なので、個々に引きずられずに語り手も聞き手も物語に集中していきたいのです。そのためには集団を感じることが大事で、それは個々の反応がどう影響し合っているのかを観ていくことだと思います。目立つ反応が周りにさざ波のように伝わっていくのなら、それに対応する必要がありますし、そうでなかったら引きずられないようにしたいのです。この辺の見極めは経験値がものをいうと思いますし、私も未だに試行錯誤している点です。

 語り手は、聞き手を集団として感じていくことが、物語を渡すために必要なことだと思います。