集中の度合いは侮れない

 私は自宅に猫が住んでいない時期は5年ほどありましたが、小学校4年生の時からずっと猫と暮らしています。猫は独特な距離感があって、飼い主が好きですが、自分からでないと抱っこすらしない子が多いです。抱っこが好きでも意に染まないタイミングで抱かれるのは好まないです。自立しているというかマイペースというかとにかく自己主張がはっきりしています。この猫の自己主張の中に飼い主が読んでいる新聞や雑誌の上に寝転ぶということがあります。猫は狩猟本能があるので動いているものに反応しますが、ページをめくった時に反応するのではなく、読んでいる時にページの真ん中に寝転ぶのです。寝転ぶ行為自体は自分に注目してということだと思うのですが、読んでいる時に読んでいる物の上にということが起きるのは、「集中の度合い」に反応している気がします。猫を撫でながら読んでいるとか、お茶を飲みながら読んでいるなど、さほど集中していない時はあまり寝転ばれないからです。

 語り手が、この猫でさえ察知しているであろうと思われる「集中の度合い」をコントロールして使えると、聞き手を引き込むことができると思います。ただ目に見える物ではないですし、自分の感覚を研ぎ澄ますことなので、どういう状態を以てして「集中の度合い」が高まっていると表現するのか言葉になりにくいことだと思います。そしてそれは多種多様な分野で技術を極めようとした人たちが追い求めた境地ではないかと想像します。「集中の度合い」を言葉にした例として思い浮かぶのが「無我の境地に至る」とか「ゾーンに入る」です。常人では意識の世界で入ることのできない領域を表していてスポーツの世界で聞くことが多い言葉ですが、集中が高まって無意識で動ける状態や自分の限界を超えた人の感覚として使われている感じです。特に「無我」は仏教用語でもあるので、仏教信仰や修行の印象があり、自分に当てはめにくい感じがあります。そしてその境地に達するのは選ばれた人であって自分とは無縁のことと思われがちです。でもそこに到達することがたとえ選ばれた人のものであっても「集中の度合い」を意識すること自体を自分とは関係ないと考えるのはもったいないと思います。聞き手の集中を感じているのですから、自分の集中する力の度合いも意識していけたらと思います。