掬いあげる

 文章を書くことによって、漠然と考えていたことが整理される感じがしています。学校教育を受けている時から、書くことは私にとってやりたいことではなく、必要に迫られて書いてきました。恥ずかしながら自発的に書いているのは今が初めてだと思います。

 そして書きたいと思って書くようになって感じるようになったことがあります。私の感覚では、考えていることを文章にするというのは水中に生きているものを空気中に放す感じのことです。頭の中にいる時はキラキラと輝いて息づいていたものが、取り出してみたら形にならなかったり、なんの変哲もないものになったりするのです。文章を綴る力が足りないために、頭の中にあるまま取り出せないのか、頭の中にしか存在できないものなのかは、今の段階では判断できていませんが、イメージとしては水中から掬いあげている感じなのです。

 そして自分でも意外ですが、ストーリーテリングでしているイメージを固める作業がこの掬いあげる感じに似ていると感じます。物語に浸るとイメージは縦横無尽に広がります。何度も読むことでそれこそ五感で感じるままに細部まで生き生きと再現することができます。けれど語るときにそれを全部持ち出すことはできません。物語に浸っている時は好きなだけ時間をかけることができますが、語る時は言葉の分しか時間がないからではないかと思います。そこで書くときと同じように水中である物語の世界から空気中であるストーリーテリングの世界へイメージを掬いあげて固定しているのだと思います。イメージを固めるというのは同じものを思い浮かべることという伝え方をしてきましたが、固めるための最初の段階はこの掬い上げる感じが近いと思います。あまり意識せずにやっているので、伝えるときに端折ってしまっていることがあるのだと思います。多分表現をするということは似たような過程を通るのかもしれないと思うようになりました。