自然の廻りのように

 自宅の庭に杏の木と梅の木があります。消毒もしませんし、摘果などもしない自然に任せたという言い方のほったらかしをしています。それでも時期が来れば花が咲き、葉が茂り実がなります。そして毎年、実がつく頃になってから後悔するのです。伸び放題の枝を剪定すればよかったとか実がなりすぎて大きくなれなくて可哀想だとか、高いところに毛虫がついて手に負えないとか、その時は思うのです。果樹ですから、何をしたらいいのかは決まってます。日光が十分届くように枝をすいて、虫がつかないように管理し、実に栄養がいくように実の数をコントロールする。必要に応じて栄養をというのもあるでしょう。手入れにはタイミングがあり、対症療法的なやり方ではうまくいかないのはわかっていても、私のように喉元過ぎれば熱さ忘れるタイプは結局何もしないことになります。直前にならないとスイッチが入らない性分でもあり、この自然の巡りにうまく対処できていません。

 この自然の廻りのようなリズムは、すべてのことに通じているような気がします。ストーリーテリングや絵本の読み聞かせをすることも、子どもたちの前で読むことだけが大事なのではないと思います。語るため、読むためだけでなく物語がいつも自分の側にあることが始まりであり、物語が傍にあり続けることが基盤になるのです。子どものためが到達点ではなく、物語の楽しみ方を熟知していること、楽しんでいることが大事なのだと考えます。熟知しているからこそ子どもたちにその楽しみをお裾分けできているのです。そしてこんなに楽しいんだよと声高に表現しなくても物語を楽しむ気持ちは物語を正確に伝えることで伝わります。果樹で言ったらストーリーテリングや読み聞かせは果実の収穫のタイミングだと思います。私たちは木で実を渡すことが役目です。受け取った実をどう食べるかを果樹が干渉しないように私たちも干渉する必要はないと考えています。それより実が取りやすいように枝ぶりを整えたり、実の食べ頃を見極めるのが私たちの役目だと思っています。そして豊かに実った実を渡せるように木のメンテナンスは欠かせません。庭木の手入れはうまくいっていませんが、ストーリーテリングでは豊かな実のために物語を楽しんでいきたいと思っています。