昔話とイメージ

 私たちは生まれた時から快不快の感覚を笑うことや泣くことで意思表示します。意思表示の必要性を生まれながらに知っています。そして自分の感覚が複雑になるにつれて表現の仕方も多種多様にし、表現するかしないか自体も選択しながら生きています。自分が考えていること感じていることも、何らかの形で見えるようにしないと、自分以外の人に知ってもらうことはできないからこそ言葉が生まれ文字が生まれ芸術が生まれたのだと思います。当然のことながら自分のイメージは人に見せることができません。ストーリーテリングをしているとイメージという言葉をよく使います。この見えないイメージがなぜ必要なのかは、昔話がイメージを介して物語を受け取れるように作られているからだと考えます。イメージは言葉より直接的に感覚として伝わるからです。

 そのため昔話に登場するものは、感覚として腑に落ちる形で表現されます。そしてこれがイメージを介して共有できることにつながっていると感じています。例えば世界中に類話があるパターンで、子どもが授からず子どもが欲しいと願った夫婦に親指の大きさの子どもが授かるという話があります。親指と言われたら聞き手は大きさが瞬時にぱっとわかります。子どもの親指でもおとなの親指でもいいのです。とりあえず親指という言葉で全員が納得できます。またサイズ感だけでなく姿形の形容でも同じです。昔話でよく目にする「誰でも一目見ただけでその子が好きになる」とか「お日さまが恥ずかしがるような美しさ」と言ったフレーズは、聞き手が個々納得する形の主人公の姿を後押しします。自分の外に出さないからこそ聞き手全員が納得する主人公になるのです。最小限の言葉で全員が納得できる形を瞬時に伝え共有していくことができるのは、イメージを介しているからではないでしょうか。

 語り手は、昔話がイメージを介していると考えると、イメージを固めやすいのかもしれません。イメージが固まっていないストーリーテリングは、おとなが聞いても物語についていくのに骨が折れます。聞き手を子どもに定めている私たちは、昔話が持っているイメージを使った表現に力を借りてより聞きやすいストーリーテリングを目指したいと考えています。