暗誦ではないけれど

 ストーリーテリングは、必ず準備が必要です。仕込みといってもいいかもしれません。それは新しく覚える時だけではありません。以前語ったことのある話をもう一度しようとする時はイメージを固める必要がないだけでイメージとどんな言葉が組み合わさっているのかを確認する必要があります。イメージと言葉のすり合わせは、ストーリーテリングをする上で欠かせないことだからです。そして語ったことのある話をテキストにあたらずに戻すと自分の言葉に置き換わっていることがあります。ずぼらな私はテキストを引っ張り出す手間を惜しんで、言葉が出てくるようだったらそのまま語ってしまうことがあるので、気がついたら置き換わっていて驚くことがあります。これは文章を暗誦しておらず、見えているイメージに言葉を合わせるため起きる事故だと考えています。こんな時これを口に乗る言葉だからと簡単に置き換えていいのか注意する必要があります。昔話には醸し出す雰囲気や昔話自体の特徴があります、それは言葉の選択も大きく関わっています。部分的に自分の言葉を混ぜ込むと昔話の特徴が壊れ、物語として成り立たなくなることがあります。

 例えば「鳥呑爺」という昔話があります。ストーリーテリングに慣れていない聞き手にも語り手にも向いた話なので聞く機会が多いおはなしです。タイトルの通りおじいさんが鳥を呑み込みおへそから鳥の尾羽が出てという話なのですが、この鳥を呑み込む場面のテキストは「呑み込んでしまいました」です。これを「呑っくんでしまいました」と語っているのを聞いたことがあります。途端にその場面は生々しいものになりました。語り手のイメージもあったのだと思いますが、鳥が暴れながら喉を通り抜ける感じになり物語というより実況に近い印象になりました。昔話で起こることは物語でのことだと聞き手も語り手も承知しているからこそストーリーテリングが成立します。下手に自分の言葉にすることでその前提を壊すところに立ち会ったと感じました。そしてここが伝承の語り手とテキストから覚えて語る私たちの違いだと思います。伝承の語り手は昔話のあり方を身をもって体験した経験から物語全体を自分の言葉に消化して語ります。テキストの助けを借りて語っている私たちとは根本的に違います。そして私たちにとって語る指針としてテキストはとても重要です。イメージを固めたらテキストとすり合わせることでストーリーテリングが成立すると考えています。