物語と語り手

 ストーリーテリングをすることはよそゆきではなく普段着の表現だと感じています。一般的な芸術のような洗練されたり圧倒的な説得力を発揮する観賞用のものではなく民藝のような生活に根ざした土着のものだと思うからです。そのためストーリーテリング用の語り口があったり日常から切り離すための道具立てがあったりする訳ではありません。例えば能や歌舞伎といった芸術は語り口や衣装や面、化粧に特徴があり何の世界かがわかる仕掛けになっています。観客は能と歌舞伎を取り違えてしまうことはなく、舞台の作りから表現方法まで含めた芸術です。

 けれどストーリーテリングにはそういった仕掛けはありません。舞台はなく自分だけです。そのため語り手が物語を伝える中でどんな役割を担っているのかの自覚が必要なのです。ストーリーテリングはシンプルなゆえにどこに意識がむいているのかがストレートに伝わります。語り手が私は間違えない、つっかえないというところに意識を向けているとそう聞こえます。聞いてくれるかしらという心配に意識が向いていると不安が前面にでます。そして語り手の緊張は聞き手の緊張を呼びます。程よい緊張感は集中力につながるので緊張は悪いものではありません。ただ過度の緊張は聞き手にとって息苦しいというか肩が凝る感じで物語の終盤まで聞き手が集中しきれないことがあります。

 この様にストーリーテリングでは語り手の状態を聞き手と共有することになります。そこで衣装や化粧が演者の素を消し役柄に変身させる手助けをするように、物語を前面にだして語り手でなく物語に光を当てるのです。語り手が物語の展開に集中することで、聞き手が必要としていないものが削ぎ落とされ物語が鮮明に伝わると感じています。極端に言えばストーリーテリングで、語り手と聞き手が物語の受け渡しをする際、物語の展開以外はさほど重要なことではないのだと思います。聞き手の物語の受け取りやすさは語り手がいかに物語の展開に集中しているかにかかっています。物語の展開から意識が外れて自分の語り方や言葉の間違いに囚われた瞬間に物語の受け渡しがうまくいかなくなることを意識することが大事です。