物語が主役

 ストーリーテリングとは物語を丸ごと伝えるもので、言葉にすると単純なことなのですが、これがなかなか思うように伝わるわけではなく、聞く側に回った時に物語を気持ちよく受け取れる時ばかりではありません。自分も語り手なので、語り手が物語を自分のものにし伝えようとすることにどれほど手間と労力をかけているのかは想像に難くありません。そして語る際の緊張感や聞き手の前でイメージを提示する大変さや言葉を引き寄せようともがいている感じが痛いようにわかったりもします。けれど物語を渡す際に、語り手の努力や苦労が透けて見えることは、物語の味わいを損ねるような気がします。

 実際、巧みな語り手のストーリーテリングは物語に集中しやすく物語を純粋に楽しめます。物語を聞いた時に語り手は確かにそこにいるのですが語り手自身を感じることは少ないです。少々言葉は乱暴ですがポンっと物語の中に放り込まれ満足感を持って現実に帰してもらえる感じなのです。だからと言って誰が語っても同じ印象になるわけではなく個性はきちんと感じます。なぜこんなことが可能なのかと言えば、イメージは語り手の感性と切っても切れないものだからだと思います。イメージを固めるところで個性が反映されていて、そのイメージに沿って物語の展開を提示しているから個性を感じつつ物語の世界が堪能できるのだと思います。これが語っている自分が前面に出なくても個性を感じる理由だと考えています。

 こう考えると物語が主役というのは語り手などいなかったように「ああ おもしろい話だった」と感じてもらえることなのだと思います。私自身子どもたちにストーリーテリングをすると覚えて語っていることを褒められたりします。これは語り手として未熟だからだと思います。道は遠いですし、ハードルは高いですが、物語が主役で語れるようになりたいと思っています。