どこで誰に

 語り手は聞き手に作られる部分があります。ストーリーテリングは聞き手が聞くことで完成だからです。そのため普段どこで誰に語っているかが、ストーリーテリングをするときに癖となって現れます。もちろん、聞き手に合わせて語っていけることが重要なのですが、これは経験を必要とします。そして聞き手に合わせることはできても一番語っている場所での経験が語り手の土台となることは避けられないと経験上感じています。

 聞く機会が減ってきているので、勉強会でも私が語ることを望まれるようになりました。実は私自身は結構特殊な場所で語ってきた自覚があって、本来のストーリーテリングの形ではないという引け目があります。そのため勉強会で積極的に語ってきませんでした。けれどそれは言い訳だったのかもしれないと感じています。私にとってストーリーテリングの理想形は家庭文庫でのストーリーテリングです。語り手と聞き手がともに物語を楽しむ様は、どこにも無理がかからずに自然体で物語が映えると感じています。そして本を読みたいと思う子が集まる場所という点でも憧れているのだと思います。

 それなのに私は家庭文庫をやりたいと思って活動をしてきませんでした。憧れは憧れで自分のやりたいこととは違うということから、目をそらしてきたのだと思います。そして私は学校の授業時間に語ることでストーリーテリングの経験を積んできました。ストーリーテリングが読む力の助けになると考えているからです。そのため聞きたいと思っているとは限らない子たちに語ることが珍しいことではありませんでした。そして聞き手の人数も調整することができません。20人のこともあれば、60人以上のこともあります。それもあって私のストーリーテリングは圧が強いといわれます。そういった現場で語るには物語を渡すという強い意志が必要だからです。私は自身のストーリーテリングの圧が強いことを内心恥じてきたのですが、勉強会ではこれも一つの参考にして貰えばいいのかもしれないと思うようになりました。言い訳のようですが、勉強会で家庭文庫を持っているメンバーはいませんし、家庭文庫以外で、あのような聞き手が育つとも思えないからです。そして語り手としての土台は経験が形作るので変えようがないとも思います。必要としてくれる場が必要とする語り方を作るのかもしれないと感じています。