· 

昔話が足りないかも

 最近の小学生と話していると、おとなのミニチュアのような錯覚に陥ることがあります。言葉の選び方がおとなのようだと感じるのです。そしてそれは子どもたちに求められている姿だと感じています。社会は、エパミナンダスのように私たちが子どもらしいと感じるような子どもたちを受け入れる寛容さを失いつつあるのではないかと思います。けれど子ども時代にしかできないことをせずにおとなと同じような振る舞いを求めていくことは、人生というスパンで考えると最終的に大きな損失だと感じます。

 ただ社会の寛容性を向上させるのは1人の力では如何ともし難いですが、物語の中で寛容性を感じることは可能です。昔話などは勧善懲悪のものと一括りにされがちですが、物語の展開に注目していくとそれだけではないことに気が付きます。深読みをしなくても登場人物の行為が必要以上に責められていないことも多いのです。主人公は選択を間違えても失敗しても物語は進み、グリム童話の締めの言葉ではありませんが主人公は死んでいなければまだ生きているのです。私たちはメッセージを込めて語ることはしませんが、物語の中で起こったことを起こったように伝えるだけで人間の生きていくことの本質が聞き手の自覚を伴わずに伝わると感じています。人は1人で生きているのではなく、ままならない人間関係や環境の中で生きていて許し許されていることが昔話の中に詰まっているからです。だからこそ世界中の様々なところで似たような昔話が伝承され時代が変わっても楽しまれているのだと思います。

 子どもらしい子ども時代を過ごせないことが増えてきているように見える今、子どもたちに昔話が必要だと思います。昔話を聞いたことで生まれる変化は目に見えるようなものではないですし、比べられるものでもないと思います。けれど子どもたちの中に人間らしさの種を撒くようなものだと感じています。加えて教え導くための物語ではなく物語を物語として楽しむことでこそ、昔話はその力を発揮するのだと思います。