· 

掴めそうで掴めない

 ストーリーテリングだけやっていたらわからなかったかもしれないということがあります。それは表現するということにはゴールがないということです。試行錯誤し、いろいろなアドバイスをもらい、ようやくわかったと思った次の瞬間に、それがゴールではないことに気がつくという繰り返しが、表現するということなのだと思います。表現者に生涯現役の人が多いのはそのためではないかと思っています。道はどこまでも続き、自分の時間は限られています。そして身体はどうしても年齢なりの働きになっていきます。けれどありがたいことに、人間生きている限り、使い勝手の悪くなった機能の代わりの機能が働くものです。以前と同様な動きではなくともなんとかなる程度にはできるものだと感じています。生涯現役の人は多分、自分の身体と折り合って表現に必要な能力を補っていくのだと思います。できなくなったことを数えるのではなく、表現したいものに注目することで工夫が生まれ、表現を追求していけるのだと推測しています。

 ただ人間は心と体が切り離せないので、掴めそうで掴めないという状態がストレスになり、嫌気が差すことがあります。ストーリーテリング だけでは気がつきませんでしたが後から始めた表現することに関しては、時折心が折れてやめてしまおうかという気持ちになります。これは経験が浅い時期は自分には向いていないのではないかという思いで、ある程度経験を積んでからは自分の限界が現時点ではないかという思いで辞めてしまおうと思ってきました。そして自分の表現することが好きという気持ちまで疑いました。けれど、問題はそこではなく掴めそうで掴めないゴールの見えなさです。結果を急ぐ気持ちがストレスの正体なのだと気がつきました。ゴールへ向かう過程を楽しむ余裕がなくなると、心に負担がかかる気がしています。ストーリーテリング で言えば、聞き手と物語を楽しむ一回一回を大事にすることが語り手の不安をなくすのだと思います。語り手としての自分は聞き手あってこそということを見失わないようにしたいと思っています。