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句読点 その2

 読むことと書くことには、関連性があると感じています。これは新しい発想ではなく様々な人によって「本が読めれば書けるはず」と言われてきました。私が感じている「ストーリーテリングが聞ければ読めるはず」という感覚に近いことなのではないかと思います。

 書き表し方というのは、文章のまとまり示し構成をはっきりさせるために有効です。論理的な文章になればなるほど、内容を正確に伝えるために文章の構成をくっきりさせる必要があります。わかりやすい文章というのは、内容とは別に文章の組み立てが見え、迷うことなく結論にたどり着けるものなのではないかと、書くようになって感じています。ですから書き表し方、特に句読点の使い方は書き手の意見が過不足なく伝わるための技術なのだと思います。

 一方読むことは、書かれている内容を正確に受け取ることなのだと思います。特に小説などの文学で起こりがちですが、内容をを受け取ることと読み手が内容に賛同することが混同されることがあります。文学は故意にわかりやすさを嫌って混沌とした感じを大事にする場合もあり、どう読み解くかを楽しむ部分があります。けれど文学はわかりにくさも内容の一部分で読み取り方に絶対の正解がないものですし、読み解けることだけが内容を受け取ったということにならないと感じています。読み解くことは読み手の感想と深く結びついていて内容を受け取った先の部分が含まれるからです。今までの国語教育が正確に内容を受け取るということに欠けているという反省が生まれたのはこの小説など文学の読み解きの比重が高かったからだと思います。そして高校の国語の科目が「論理国語」と「文学国語」に分かれた理由もこの辺にあるのではないかと思います。

 このように考えると、ストーリーテリングは、論理と文学の間のものではないかと思います。そして文学的な読み解くおもしろさを捨てたもの、わかりやすさが最優先になっているものと考えると、読むと物足りない感じがすることの理由になります。そして句読点が多いことも、文章の骨組みを表し、わかりやすさを意識したものだと考えると説明がつくのではないかと思います。一方通行で、途中で止まれないという条件で物語を渡すストーリーテリングは、その条件の厳しさゆえにわかりやすさが前面に出た作りになったのだと思いました。