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悩ましい

 ストーリーテリングは、語り手が自然体で語ることが魅力だと考えてきました。語り手の普段の喋り方が反映することは、マイナスではなくプラスに働くと感じてきたからです。ゆったり喋る人がゆったり語ると味になります。早口の人のたたみ込むような語り口もそれはそれで楽しめます。声の大きさも音色も、その人の持っているものがそのまま持ち味となって、その人のストーリーテリングになっていきます。例えどんなに他の人の語り口が好きでも、それは聞く時の楽しみで、自分が語る時の参考にはできないのがストーリーテリングです。そして語り手が無理したり、人の真似をしないことが、物語の中に入ったらそこで起こることに疑問を挟む余地がないという説得力につながると感じています。

 けれど最近は語り手が自然体で語る事が難しくなってきました。今までは声を張るなど語り手に無理がかかることを避け自然体を守るために、環境を変える方向で調整していましたが、新しい距離感に伴い環境に手を入れることが難しくなっているからです。特に学校で語る時は、聞き手同士が距離をとって座り、語り手の声が散ってしまう広い場所で語ることになり、実際の人数以上の集団に語る声が必要になっています。声を張らざるを得ないというのが実状です。頑張って語る事が、聞き手にどう影響するのかはまだわかりませんが、語っている側の消耗は以前の比ではないと感じています。声を必要とするので身体を使っていますし、集中力もいつも以上に必要だからです。大袈裟に言えば、身を削る感じがするくらいで、夕鶴のおつうになった気分です。ここまできて、ようやくこの制約がある中でも、もう少しやりようがあるのではないかと考えるようになりました。制約さえなければ答えがわかっていることを、制約を踏まえたもので考え直すこと自体、気が進みませんでしたが、考えてみる時期なのかもしれません。