集団向け

 自分の子どもをストーリーテリングの練習相手にすることは、語り手にとっても、聞き手の子どもにとってもいいことではないと考えています。理由は、ストーリーテリングが目を見て語るものだからです。自分の子どもの目をしっかり見て話す時というのは基本的に何か大切なことを伝える時です。親子とはいえ話すときにいつも目を合わせている訳ではありません。けれど自分の子どもに語るということは物語の最初から最後まで目を見たまま語ることになり、お互い居心地が悪く、多分目を合わせ続けるのは無理だと思います。そして目を合わせなければストーリーテリングはストーリーテリングになりません。もし目を合わせ続けることができたとしても集団の中では数えるほどしか目が合わないはずのストーリーテリングで視線が合い続けると自分が物語を受け取るために必要なイメージ以上のものを受け取ることになります。やはりストーリーテリングは集団に向けた手法なのだといえます。この集団向けだと意識することは、実は語り手にとってとても重要なのではないかと感じています。

 親子で物語を楽しむなら、ストーリーテリングのような準備は必要なく、そのまま読んでも十分物語を子どもに渡すことができます。イメージを固めてイメージに言葉をすり合わせていくという作業は、集団に渡すための技術なのです。そして目を見て語ると言っても集団の中ならひとりの目を見続けるのではなく、目から目へ視線を動かして置いていく感じです。またしっかり目を見る必要があるのは、物語と集団を結びつけイメージを共有するためです。視線が合うことで聞き手が自分も集団の一員で自分に向けて語られているという実感が生まれると感じます。加えて今まで様々な集団に語ってきましたが、集団が大きくなればなるほど語り手の物語への集中力が必要となりくっきりとしたイメージが必要になると感じています。やはりストーリーテリングは聞き手と語り手で作るもので、完成形は子どもに語らないと分からないのだと思います。