効率の悪さが叶えること

 今、世の中の風潮として、いかに効率的に物事を進めるかを考えることが重要視されていると感じます。工業社会からポスト工業社会へ転換し、人間の能力そのものが経済社会が発展する原動力になると考えられていますが、人間が主役になったとしても労働において効率を無視する訳にはいかないためだと思います。けれどこの感覚が労働以外の生活に紛れ込むと、生活が安定しないと感じています。特に子どもが育つことに効率という感覚が入り込むと、ゴールを見誤ると感じています。

 私たちがストーリーテリングというある意味非効率的なやり方で物語を届けようとしているのも子どもたちの成長とともにありたいと感じているからです。子どもたちにとって物語は人間として育つ上での土壌を豊かにすると感じています。これはその場で効果を実感するものではありませんが、物語をたっぷり楽しんで育つことは人間らしさを育むと思います。中でもストーリーテリングで使われる昔話は生きることの本質を端的に伝えます。主人公に落ち度がなくとも色々なことが起こり、何が起こっても生き抜いていくことが物語になっています。そして人として何が大事なのかが、どうすべきという指示ではなくとも感じ取れるような形になっています。ですから何度も聞くことによって雪が降り積もるように聞き手の中に人間の知恵が溜まるのだと思います。人生を切り開く際、同じシチュエーションで同じことが起こるることはほぼありません。だからこそ昔話のような伝え方、溜め方が連綿と続いてきているのだと考えています。

 そして忠実に物語を伝えることだけに集中しないと、昔話の効用が発動しないことも興味深いと思います。成果を急いで教訓として教えてしまうと応用が効かず本当の力になりません。昔話の場合効率の悪さこそが実は深く心に残るための仕組みなのかもしれません。