忘れることの意義

 ストーリーテリングをしていると、語れるようになった話を大事にしたくなります。せっかく時間をかけてイメージを固め、そこに言葉が乗るようになったのですから、それをそのままキープしたくなる気持ちはよくわかります。けれどストーリーテリングにとって大事なのは語れるようになった話を忘れることだと感じています。積極的に忘れるというよりは寝かせるといってもいいかもしれません。一旦記憶の奥底へ封印する感じでしょうか。ずっと同じ話を持っていると、何かの拍子に部分的に思い出し、あれこの場面のこの言葉なんだっただろうというように、イメージではなく言葉に焦点が当たった思考になりがちです。せっかくイメージと言葉を結びつけたのに、暗誦寄りの発想になってしまうとストーリーテリングではないものになっていきます。問題なくスラスラ語れているのに言葉が上滑りするようなストーリーテリングになる時は、暗誦になっているからだと感じています。これは語り慣れている語り手なら初めて語る話では起きにくい症状です。極端に言えばストーリーテリングは言葉が出れば語れるのではなくイメージが呼び出せれば語れるのです。もちろんイメージに対しての正確な言葉は必要です。けれどイメージあってこその言葉なのです。

 現代の語り手である私たちはストーリーテリングをするにはテキストが必要です。それはイメージを固めるものであり、固めたイメージを正確に伝えるためのものです。加えて暗誦ではないからこそ何度語っても新鮮で生き生きとした物語であり続けるのだと感じています。イメージに言葉をつけるというのは、現代の私たちにとって馴染みが薄いことです。けれど文字を持たない時代には歴史などをそらんじて伝承していく役割の人がいました。イメージで覚えるというのはその時の名残りかもしれないと考えています。イメージは言葉とは違った記憶の領域に刻まれ言葉だけでは伝えきれないものも含まれているのかもしれません。そのため言葉だけとイメージと一緒のものの違いを感じるのではと想像しています。語り手にとってイメージとして物語を呼びおこすことを習慣にする必要があります。イメージからスタートするには言葉を忘れることが有効だと感じています。言葉が出ないことへの恐怖は語り手なら誰でも持っているものです。けれどあえて言葉を忘れてイメージだけの記憶にしてしまうことが語り手として必要なことだと考えています。そして頻繁に使っている話でも語る際には前日にテキストを見るという教えもイメージで記憶しそこに言葉をつけるというストーリーテリングの真髄を伝えるものだったのだと感じています。