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物語を渡した先

 スポーツ選手の感動を与えたいという発言を聞くと、選手の活躍を支えている弛まぬ努力や極めようとする意志、鍛え抜かれた肉体などを尊敬し素晴らしいとは感じるものの人を感動させることが目的になると違和感を感じます。感動というのは感覚的なもので感情に直結している気がしています。何も考えずに心を揺さぶられることを否定している訳ではなく、意図して感動が生まれる訳ではないと考えています。感動を受けとる側の心理状態や体調にも感動が生まれるかどうかが影響していると感じていますし、何より同じものを見て誰もが同じに感動する訳ではないと思うのです。感動することは読書と一緒で非常に個人的なものなのだと思っています。

 そして読み聞かせやストーリーテリングは感動を目指すものではないと考えています。物語は「ハレ」の日の特別な楽しみではなく「ケ」の日である日常生活と共にあるものだと思うからです。感動は刺激の強いもので特別なものだと思います。毎日感動しようとしたらそれこそ感覚が麻痺しそうです。物語はそんな強い刺激を与えようとするものではないと思います。

 加えて物語に浸るというのは一回だけでなく同じ話を何度も聞いたり読んだりすることも含まれます。ずっと物語を心の中に住まわせ時々取り出すことが楽しみのひとつで、どう感じるかはその時々で違うことを自分で気がついていくものだと感じています。またどの物語に浸るのかは個人の自由ですし、どの物語が心に住みついているのかを自覚しないことも物語の魅力です。意識して住まわせようとして留めるのではないと感じています。ふとしたきっかけでなんとなく思い出すことがあり、理由をつけようとすればつくのかもしれませんが、理由は重要ではないのだと考えています。

 こう考えると私たちがなぜ読み聞かせやストーリーテリングをしているのかは、自分自身が物語が心に住むことを知っているからともいえます。また心に住まわせたことがあれば、聞き手が物語を受け取り心に住まわせ時々思い出しては色々なことを考えてくれる様を想像することができます。渡した物語が聞き手の中で生き続けるのを待つのも楽しみのひとつになると思いました。