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絵がないこと

 赤羽末吉さんの絵本をまとめて見た時に、久しぶりに『スーホと白い馬』を手にとりました。私が小学校1年生か2年生の時に自分で読んで以来、タイトルを見るだけで、読み返すことを避けてきた絵本です。一時期国語の教科者に掲載されていたので多くの人が知っているおはなしだと思いますが、私が読んだ頃は教科書に載っていたわけではなく絵本を買ってもらって読んだ記憶があります。その当時は言葉で表現できませんでしたが、やり場のない強い憤りを感じたことを覚えています。特に白い馬が殺されてしまう理不尽さに泣きすぎて息が止まりそうになるような息苦しさを感じていました。当時実際泣いたのか泣かなかったのか記憶が定かではありませんが、読書でこれほど胸が締め付けれるような思いをしたことはありません。言葉にならない分、感覚的に心に直接刻み込まれた感じです。たくさんの矢が刺さったままスーホの元に帰ってくる絵は今も痛みを持ってその当時の感覚を呼び起こします。また瀕死の状態でも帰ってきたという馬の存在が頭から離れず、馬頭琴として生まれ変わることはその当時の私にとって何の救いにもなりませんでした。

 久しぶりに『スーホの白い馬』を見て、その当時ストーリーテリングでスーホの白い馬に出会っていたらどうだったのだろうと思います。もしくは私がもっと年齢を重ねてから絵本で出会っていたらどうだっただろうと思います。赤羽さんの絵は広大なモンゴルの平野を感じさせ、広い平野を駆ける馬の姿が印象的です。この躍動感あふれる馬の絵が白い馬の死をより現実的な死として強く感じさせたのだと思います。もし絵本で出会っていなかったら、物語の内容を思い出すとしてもこれほど痛みを伴う記憶にならないと思います。そして絵にしたものは出会うタイミングを考える必要があるとも思います。『スーホの白い馬』は勉強会で聞きたくないと言ってしまうくらい、私にとって思い出すだけでまだ胸が苦しくなる絵本だと今回再確認しました。