伝える気持ち

 私たちはストーリーテリングや読み聞かせをすることで物語を伝えています。「子どもたちがこの言葉を理解しているだろうか」とか「この話は子どもたちがわかるのだろうか」と気になるのは、伝えている自覚があるからこその感覚です。

 私たちにとって伝えているという自覚は必要ですが、この伝えることは共感することと混同しがちな感覚です。伝えることと共感することは似ていますが同じものではないと考えています。私たちは物語がどう展開するのかを子どもたちと共有します。物語で起こったことを受け止めこの先どうなるのだろうということに語り手も聞き手も集中したいのです。

 けれど共感したいと考えると、語り手と聞き手は物語の展開を同じように解釈し感じるというところまで共有していくことになります。同じ世界を見るという点では伝えることも共感することも同じですが、着地点が違うと考えています。共感に比重がかかると内容よりもどう感じるかを渡すことに夢中になり、聞き手は感情の動きの方が内容より記憶に刻まれることになりかねません。「すごく笑ったけど、なんの話が思い出せない」とか「思わず泣けてしまったけれどどんな話だったのか記憶にない」という感想を聞き手に持たれては、物語を伝えるためにストーリーテリングをしているという私たちの原点が揺らいでしまいます。

 どう感じるかは聞き手に任せるというのは、語り手が共感することに触れすぎないためのストッパーでもあります。もちろん語り手の感情を殺して語ることを目指しているのではありません。イメージを固める段階で個々の語り手がどう感じどう物語を捉えているのかは反映されます。ですから同じ物語を語っても語り手によって微妙に雰囲気が違うのです。そしてその雰囲気が違うこと以上に聞き手に同じ感覚を持って欲しいと押し出さないことが大事です。

 語り手にとって聞き手の表情や反応はとても魅力的なものです。けれどもっと笑って欲しいとかもっと反応して欲しいと思うとそれが共感したいというスイッチを押してしまいます。物語の展開を伝えることに集中することで共感に踏み込んでしまわないことが大事だと考えています。