日常の一部に

 おはなしの会が中止になって子どもたちと物語を楽しむことが減ってきています。日常の中に組み込まれていてあまり感じていませんでしたが、こうなってみると子どもたちに物語を渡す機会が語り手としての自分を支えてくれていることを強く意識します。過去の経験から培うものと日々子どもたちに物語を渡すことの両方が必要なのだと思います。あまり意識していませんでしたが実は漠然とわかっていたことなのかもしれないと思います。例えば素晴らしい語りで聞き手を魅了してきた語り手が様々な事情から子どもに語る場を持たなくなっても、その実績からその人の語りを聞きたい人のために語ってくださることがあります。その人が培ってきたものが失われている訳ではないのでやはり素晴らしい語りなのですが、日常的に子どもに語る場を持っていた時と手触りが変わったと感じることがあります。これなども子どもたちに渡しているかどうかが語りに現れる例だと思います。子どもに聞かせているのではなく、聞いてもらっていると表現する語り手が多いのもこの辺に関連しているのだと思います。ストーリーテリングは聞き手と語り手で作るものなので、私たちが思っているより生き物に近いのだと思ったりしています。

 そして子どもに語る頻度が多いほど良いというより日常に組み込まれているという感じが大事なのだと思います。月1回でも、年数回でも語り手の生活の中に根付いたものとして子どもに渡す機会が必要です。ストーリーテリングは聞く読書だと私たちは考えています。イベントの様な特別なものではなく、なんの変哲もない日常の一部としてあることが、聞き手だけでなく語り手にとっても重要なのだと思いました。コロナ対応をしているとどうしても突発的な変化を余儀なくされます。それにくじけることなく、変化をも取り込んで日常を守る意識が求められているのかもしれないと感じています。難しいですがどっしり構えていけるといいなぁと思っています。