「おいしいおかゆ」が教科書に

 最近2年生に「おいしいおかゆ」を語ると、どこの学校でも知っているという声があがったり、話はじめるとあっという顔をして隣の子と顔を見合わせるといった反応をする子が今までとは桁違いに増えて、突然の変化に戸惑っていました。昨日2年生の担任の先生とおはなしする機会があったので伺ってみると、1年生の国語の教科書に「おいしいおかゆ」が取り上げられているのだそうです。といっても子どもの教科書にはタイトルと見開き1ページにいくつか絵が書いてあり、先生が文章を読むのでそれを見ながら聞くという単元なのだそうです。絵本ほど絵がある訳ではなく読み物の挿絵だけが抜き出して描いてある印象です。中身について考えたりさせるのではなく、さらっと触れる感じと先生がおっしゃっていました。それを聞いて反応の変化に納得しました。昨年度から教科書が変わったので、今の2年生は新版の1年生の教科書を使って進級した初めての2年生だったからです。

 この教科書での取り上げ方はアプローチの仕方としてはストーリーテリングに近い印象を持ちます。動機が物語を聞くことで物語の楽しさを知って欲しいというところにあると感じるからです。そして教科書なのにあえて活字を追わせないことで文字と物語の関係性を浮かび上がらせようとしていると感じました。実際活字を追うことに力を取られて活字が表現しているものを受け取れない子がいるのも事実だからです。絵にした場面も展開について行ききれなかったりする子のサポートという意図を感じさせる選ばれ方です。このアプローチ自体は新しい取り組みとしては評価できるものだと思いますが、これで問題解決するかと言えば難しいと思います。理屈としては成り立っていますが促成栽培的な印象が拭えません。時間と手間をかけて育むものを効率的に育成できる方法を探るのは虻蜂取らずになりかねません。

 実際教科書で聞いた子たちに「おいしいおかゆ」を語ると、ストーリーテリングとしてうまく伝わらないというもどかしさを感じました。挿絵に助けられて耳で聞いた物語は自分でイメージしていない受け身のものになってしまい、おかゆが溢れていく様に充分ついてきていないのになんとなく聞いて物語がなんとなく進んでいく感じなのです。物語の展開を自分でイメージしてみることがたとえそれが部分的であったとしてもストーリーテリングを聞くことの意義なのだと思いました。そして絵がないからこそイメージを作るしかないという状況ができるのだと感じました。実際私たちも子どもたちがはじめはうまく受け取れなくても回数を重ねて受け取れることを体験から知っています。手をかけることの意味を改めて考えさせられました。