語り手という表現者

 私たちが目指している語り方を説明するのに「物語を丸ごと渡す」という言い方を繰り返ししています。説明のため比較することも多い演劇は俳優が登場人物を自分自身として演じること、ストーリーテリングは物語の展開をイメージ化することが渡す方法です。けれどやり方が違うだけで、どちらも表現者という点では同じだと感じています。物語が主役だということに間違いはないのですが、語り手の存在が無になることを目指しているのではありません。同じ話でも語り手が変わると聞いたときの印象が違うのは語り手の存在が物語に影響を与えるからです。その違いを作り出すのは、物語を構成するために固めているイメージの違いで語り手の感性ともいえるものです。よく勉強会で主人公の年齢や姿形はどんな感じだと思って語ったとか、聞こえたとかいう話になるのは固めていたイメージについてその解釈で物語が成立しているかをお互いに確認するためです。

 私たちは語り手という表現者なのだということを忘れてしまう訳にはいかないのだと思います。物語を前面に出しているので黒子の意識が強いですが自分の個々のイメージする力や物語を捉える力は語り手でいる以上いつも試されています。自己表現の手段としてストーリーテリングに取り組んでいないだけで自分の感性は見えていると思うと今更ながらに怖いと思います。

 先日勉強会で赤ずきんを語った時に赤ずきんが元気で明るくて聞いて楽しかったと言われました。私はストーリーテリングの経験が浅い語り手が多い勉強会では自分のイメージを強く前面に出さずに控えめに語ってきていました。私は聞き慣れない子どもたちに語ることが多いため子どもたちが受け取りやすいように語り手の押し出しの強い語りになっているという自覚があるからです。語り手の押し出しが強い語り方は聞き慣れた子どもたちにとっては物語に浸りにくいので他の語り手の参考にならないという意識が働くのです。けれどその時は子どもたちに語ったばかりだったのでコントロールがきかずにうっかり子どもたちに渡す時と同じように語ってしまいました。けれど押し出しの点を差し引いても楽しかったという感想を聞いて、自分が考え違いをしていたことに気がつきました。自分のイメージは自分のイメージで望む形に変化させることができると考えること自体傲慢だったのだと思います。例え憧れる語りと隔たりがあったとしても自分が置かれた場所で培った語りを自分が卑下してどうするのだと反省しました。そしてコントロールするつもりで物語の面白さを削ってしまっていたとしたら本末転倒にも程があります。物語が好きならその物語を一番いい状態で渡すために語り手は表現者として自分と向き合うのだと思いました。