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聞きやすさに注目する

 読み聞かせやストーリーテリングといった言葉で物語を伝えることと歌で音楽を届けることに類似性を感じています。それはどちらも発信する側が自分の声を使うので声の使い方や発声の仕方といった発信している側の事情と聴く側の聞きやすさや心地よさは別物だからです。どちらも声にする以上、発信する側は声を出すことに注目しがちです。そしてどちらも聞き手は声を介して内容を受け取るので声に対する評価が聞いた感じに含まれます。

 読み聞かせやストーリーテリングをしても物語ではなく声を褒められることがあります。けれど伝える側としては自分の声を意識したことはありません。読み手は一人目の聴き手と言われますが聞いているのは声ではなく物語です。物語の展開に必要な言葉がイメージと共にきちんと届いているかを聞いて確かめているだけでどんな声で語っているのかを意識したことはありません。そして不思議なことに意識の焦点の当て方で伝わるものが変わってくるのです。例えば「きちんと届いているか」が「ちゃんと聞こえているのか」にすり替わると大きな声が出ているのかに焦点が当たります。すると語り手は精一杯の音量を目指していくので、聞いていて物語より声の大きさが伝わってその精一杯さに聞く側が息苦しくなったりします。ですから私たちは物語に集中することが何より求められます。

 そして意識の焦点の当て方の問題は歌の方が影響が大きいと感じています。歌は語ることと違って伝達手段としての声ではなく楽器の音色として声に気を配る必要があります。そこで鳴らすことに夢中になって自分の声が鳴ることに集中が行きがちになります。すると音楽を届けているはずが楽器としての声を聞いてもらうことが前面に出て、聞き手は音楽の表現材料としての声ではなく声を楽しむ手段としての音楽という似て非なるものを受け取ることになったりします。またいけないことに自分の声が使いやすい歌い方と音楽が求める歌い方が一致することばかりではありません。そこでついうっかり自分の歌いやすさが優先になって音楽を置き去りにするといった事故が起きがちです。そのため歌もいかに音楽に集中するかが大切になると感じています。

 そしてどちらも聞き手に何を届けているのか強く意識し、届けているものの完成形がイメージできていてこそ聞き手の聞きやすさが保証され発信されたものが受け取りやすくなるのだと感じています。