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子どもを子どもとして

 時代を越えて支持されてきた絵本には、誰もが過ごし次の子どもたちが過ごす子ども時代を愛おしみ大切に思っていることが作品基盤に息づいていると感じます。これは子どもを教え導くこととも子ども時代を懐かしむこととも違うと感じています。直接的に作品のテーマとして取り上げられるのではなく作品の先にいる子どもたちへ向ける作家の眼差しを感じるからかもしれません。そしてこれは自分が子育てをしている時はよく見えなかった部分でもあります。

 子育てをしているとどうしても近視眼的になり子どもへの関わりは生活することと直結し毎日を滞りなく過ごすことにエネルギーが取られます。加えて子育てには階段を上るような感覚があって入学や卒業といった節目の年があるので子どもの将来に思いを馳せるといったことがしにくいのだと思います。そして絵本を読むことも子どもの要求に応えることの一部になったり、親心に訴える絵本の効用についての情報が氾濫しているので絵本を選ぶことに混乱したりして絵本を形作っているものにまで目が向きにくいのだと感じています。

 時代が評価を通した絵本は、その時代背景の古さや価値観の違いに今の子どもたちには向かないといわれたりしますが、作者の子どもたちに対する温かい眼差しは時代などを差し引いても十分今の子どもたちにも降り注ぐものだと感じています。子ども時代というものはいつの時代も特別なもので子どもたちを守り慈しむ気持ちは変わらないからです。そしてそいういった絵本を読んでいると現代はおとなと子どもの役割の違いを意識することが減っているのではないかと思います。それは子どもの人権という価値観が定着したことで、全てにおいておとなと対等に扱うべきだという感覚を持つおとなが増えてきたことと無縁ではないと思います。子どもはおとなの所有物ではないし意志を尊重する相手だということに異論はありませんが、だからといって庇護すべき相手ではないということにはなりません。けれど子どもの人権という価値観がおとなを子どもっぽくし、子どもをおとなっぽくし差異を小さくしている感じがしています。

 そしてこれが絵本が作られる時にも影響して誰のために書いたのか分からない作品を増やしているのではないかと想像しています。新しく出版された絵本を読んでいて時代を越えた絵本に感じるような安心感を感じることが少ないのはそのためではないかと思います。子どもが子ども時代を謳歌できるためにはおとなの配慮が欠かせずそれは必ずしもおとなが望む子ども像を押し付けることはないのではないかと最近考えています。