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物語を子どもに渡すということ

 昨日子どもたちに本の紹介をしていて、声に出して伝えるということがどういうことなのか実感したので、読んでくださっている皆さんと共有したいと思います。

 昨日紹介した本は「王さまと九人のきょうだい」中国の民話 君島 久子/訳 赤羽 末吉/絵 岩波書店 です。舞台は中国のイ族の住む村。長年子どもが欲しいと願い続けてきたおじいさんとおばあさんに仙人が子どもが生まれる丸薬を授けてくれ九人のこどもに恵まれたところから物語が始まります。そしてその九人にはそれぞれ特殊な能力がありそれを生かして活躍するという内容で、読み始めの子どもたちを物語の中に引き込む力がある作品です。ところが今回紹介をはじめた途端、イ族という言葉に引っかかって脱線してしまった子が出ました。イ族ということがわからなくても物語は理解できるので物語の紹介についてきている子どもたちは特に反応しなかったのですが、脱線した子は「いぞく」という音から頭の中で「遺族」と変換したために大混乱し納得できなくなりました。混乱のあまり「遺族って人が死んだ時くる人だよね」と声を上げるので巻き込まれる子が出ました。2年生で遺族という単語を知っていることにも驚きましたが、定義が違っていることも気になりました。けれど一緒に脱線する訳にもいかず、イ族ってみんなが日本人っていうみたいなこととふわっと説明しました。

 脱線した子の混乱を見ていて活字を追うことと耳で聞くことは違うのだということを改めて強く感じました。多分その子も自分で読んでいたらイ族を遺族と変換することはなかったと思います。また絵本として絵を見ながら聞いていたら山深い風景と腰の曲がったおじいさんおばあさんの絵が物語の根幹に導いてくれイ族に引っかかることはなかったと思います。そしてストーリーテリングだったらイメージを固めて言葉を載せるので今回ほど「いぞく」という音が殊更子どもの興味を惹かなかったとも思います。今回の混乱は本の紹介ということで中途半端な立ち位置で私が声に乗せたために起こったことだと感じました。絵を見せるかイメージを固めて言葉を載せるのかは、子どもに伝える時には欠かせないことなのだと今更ながらに痛感しました。物語を渡す手段としてなぜ読み聞かせをするのか、なぜストーリーテリングをするのかは、物語の枝葉を削ぎ落として根幹に導くことができるからという原点を見た思いです。