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スーホの白い馬

 『スーホの白い馬』大塚 勇三/作 赤羽 末吉/画 福音館書店 を読み聞かせで聞きました。子ども時代に胸が苦しくなるほどインパクトを受けた絵本なので自分で手にとって読むことも他の人に読んでもらうことも避けてきた絵本です。けれど聞いて驚きました。私が感じていた行き場のない悲しみなど絵本から受け取ることがなかったのです。

 赤羽さんの絵は大型の絵本のサイズを活かして壮大なモンゴルの風景を感じさせてくれます。人物の表情はほとんどアップにはならず、スーホの悲しみを情感に訴えるような絵は一つもありませんでした。また理不尽な行いをする殿様も憎々しげに描かれることはなく起こったことを起こったままに描写されていきます。どちらかというと平原の広さに比べて人がいかにちっぽけなことかが印象に残ります。対して白い馬の走る速さが圧倒的だと文句なく絵が伝えるので、馬で移動するモンゴルでこの白い馬がどれほど魅力的なのかを雄弁に伝えます。そして感傷的になりそうなシーンは絵の雰囲気を意図的に変えているのではないかと今回思いました。風景画と言っていいような完成度の高い絵で物語が展開していく中、スーホが白い馬を拾って帰ってきたシーンと白い馬が死んでいくシーンは雰囲気が変わっています。馬を拾ってきたシーンは暗くなってきたという描写に合わせて暗い赤の一色の背景に人物が黒いシルエットで描かれスーホに抱かれた白い馬だけ白く描かれていて印象的です。この物語の始まりとなるこのシーンが象徴的に印象的に描かれることで感傷的なものを受付けない絵になっていると感じました。また白い馬が死んでいくシーンは白く霞がかかったような描写で死んでいく馬をスーホが抱き抱えている絵で表現されているのですが、既にこの世とあの世の中間を感じさせる生々しさを排除した絵です。感情を揺さぶられるというよりは悲しみをも飲み込んで事実を受け止める静かな印象を受けました。そしてこの白い馬の死はこの物語の結末ではなく馬頭琴の誕生の話でもあるのだと読んでもらって思いました。

 子ども時代とこうも印象が変わった理由を考えてみると、この絵本を読み聞かせではなく自分で読んだためだと思います。自分で読むと絵の力を借りずに文章から物語を受け取ってその補助に絵を見ます。そして読書ですから気になったところは止まってその世界に入り込みます。そのため描かれているより理不尽さが強烈に私の中に流れ込んだのだと思います。そしてそうなってから絵を見ても絵のメッセージは私には届かずに馬頭琴の話もおまけにしか思えなかったのだと思います。当時の私にとってスーホの白い馬はスーホが大切に育て兄弟のように愛しみあった白い馬を悪い殿様に殺された話として受け取っていたのだと気がつきました。絵本なのに絵を見ていないために絵本として完成された物語の姿を受け取れなかったのです。絵と文章を同時に楽しむものとして作られた絵本を文章だけで受け取ると別物として受け取ることもあるのだと驚きました。

 そして絵に任せた読み方をしてもらったからこそ絵がよく見えたのだと思います。読み手が文章に引きずられて絵を無視すると子ども時代私が受け取ったような物語として読むことも可能です。けれどそれではこの絵本で読む必要がなくなってしまいます。答えは絵にあるということを改めて実感しました。そして絵本における画家の役割の大きさを見せつけられました。赤羽さんは絵だけで勝負する画家でもあるのだとスーホの白い馬は伝えてくれています。