聞く読書という言い方

 ストーリーテリングを説明する時にわかりやすいと思って「聞く読書」をいう言い方をしてきました。けれどこの「聞く読書」という言い方がかえって混乱を招くこともあるのだと最近感じています。

 「聞く読書」という説明は、止まらずに一回聞いただけでも物語の内容が伝わることを指したつもりでした。けれど読書は人によって捉え方が違います。「聞く読書」を物語を読んで自分の心のままに浸った世界を再現することだと取ると別物になってしまいます。確かに読書は何度も読む楽しみがありますし、物語に浸って細部まで空想する楽しみがあります。けれどこれは自分で読む時の楽しみ方です。ストーリーテリングの場合どんなにイメージを固め生き生きと語ったとしても空想にふけるような物語の渡し方はできません。そいういった意味でストーリーテリング と読書は別物です。ただ語り手が語る物語を聞くことで物語を受け取るという点では限りなく読書に近いと思います。ストーリーテリングの醍醐味は「次はどうなるのだろう?それでそれで」と物語が進んでいくことを楽しむところにあると考えています。ですからストーリーテリングに向く話と向かない話があるのだと思います。難しいのは物語を語ること自体に様々なやり方があることです。伝承芸能である落語や講談、一人芝居や朗読など様々な手法で物語が語られています。またそれぞれ伝えたいものが違うので題材が違い語り方が違います。そしてそれぞれの語り方でも人が語るのですから同じ題材でも語り手によって感じが変わりその違いも楽しみの一つになっています。ですからきれいに整理するのが難しく混沌とした世界ではあります。けれどこれが語りの文化の豊かさでもあるのだと感じています。

 ストーリーテリングもこの混沌とした世界から無縁ではありません。同じ方向を向いて同じ語り方をしていると思われている東京子ども図書館のおはなしの会を初めて聞いた時におとなの会だったこともあり語り手によってかなり感じが違うと驚いたことを覚えています。はじめは混乱しましたが、ストーリーテリングに適した物語の選択はほぼ統一していること、語り方に違いがあっても許容範囲があることが理解の助けになりました。やはり語りの文化は聞くことに尽きると思います。聞くことがストーリーテリングが何なのかを教えてくれるのだと思います。