子どもたちの変化

 ストーリーテリングに使う物語の中ではかっちりした昔話が好きですが、ほら話や荒唐無稽なナンセンスなお話も好きです。こういった物語の方がそんなばかなと思いつつ笑えて発散できる感じがするからです。ところが最近子どもたちにストーリーテリング をしていて、この荒唐無稽なタイプの物語がうまく伝わらない感じがしています。

 例えば「ついでにペロリ」は、おばあさんが炉端にいた猫におかゆの番を頼んだら、猫がおかゆを食べてしまい、ついでにお鍋を呑みこみ、そしておばあさんを呑みこみ、つむじまがりを呑みこみと次々出会う相手を呑みこんでいく物語です。その語り口調の調子の良さに加えて意外なものを呑みこんでいくので、子どもたちは「ええー!?」と言いながらもなんとなく物語に巻き込まれていき、次第に楽しくなっていくというお話で、私も好んで語ってきました。けれど最近、こんなことが起こるはずがないという出発点から離れられずに物語の中に入り込めない子どもたちがいます。以前もいたのかもしれませんが、入り込めない子どもの数が増えているような気がします。今までは猫がお鍋を呑みこんだところで、これは普通じゃないぞと子どもたちが思い、物語の中に入ってきたような気がします。ですからお鍋を呑みこんだ時の「えー」が一番実感がこもっている感じがしました。そしてその後の「えー」はやっぱりという感じで驚きと共にお鍋を呑みこむんだからそうだよねと納得していく印象でした。今でもそういう聞き方をする子も、もちろんいます。けれど物語に入れずに冷めた目で聞いている子がちらほらいて子どもたちの変化を感じます。

 これは乳幼児期に物語に親しむ経験が薄いせいではないかと想像しています。ありえないと思えることが起こった時点で物語に入れない子は物語の世界が現実とは違うことを知らないのだと思います。そして物語だからねと前置きしては物語は楽しめません。解説するのではなく、たくさんの物語に出会うことで暗黙の了解として身に付くことなのだと思います。物語に親しんでいない理由はひとつではないと思いますが、物語に入れない子どもたちは現実で起こりえないことを受け入れることが苦手なのは事実だと思います。その結果現実にあることだけを良しとしているように見受けられます。けれど物語を楽しむことを割愛するのは子どもの成長にとって好ましいことだとは思えません。物語を楽しむ経験が積めるという点でストーリーテリングは子どもたちの助けになっていくのかもしれません。

 加えて物語を楽しむ経験が足りない子どもたちにとって、一緒に聞いてくれるおとなの役割が重要です。特にクラス単位であれば担任の先生の聞き方が物語の展開に戸惑う子どもたちを導いてくれます。「ついでにペロリ」は猫が豪快に呑みこんでいく繰り返しと、結末で猫のお腹から呑みこまれた人たちが出てくるところがセットなのですが、最後の最後におばあさんがおかゆの入ったお鍋をしっかり抱えて出てきます。これが物語の物語たる所以だったりするのですが、呑みこまれたものが次々出てくるところは楽しめてもおかゆの入ったお鍋に困惑する子がほとんどです。けれどこのタイミングで担任の先生が笑ってくださるだけでなんとなく収まります。子どもたちは、そうか笑うところなんだと思うようです。このユーモアがわかるかわからないかで物語の印象が変わるのです。おばあさんがおかゆの入ったお鍋をしっかり抱えて出てくることに意味があると語るなかで感じていますし、一緒におとなが聞く意味を感じています。