物語を物語として

 子どもたちが以前と違った聞き方をすると感じているお話に「エパミナンダス」があります。エパミナンダスという男の子がおばさんの家へいくとおばさんがいつも何かをくれますがエパミナンダスはもらったものがダメにならないように持って帰ることができません。そこでお母さんがもらったものの持ち帰り方を教えるのですが、もらうものがいつも違うのでうまくいきません。エパミナンダスが生真面目にお母さんの教えを守って持ち帰ろうとすればするほどおかしなことになり子どもたちの笑いを誘います。どうしてこんなことにという意外性が楽しくて好んで語ってきている話です。

 けれど最近「エパミナンダス」も物語としてうまく伝わらないことが増えてきました。エパミナンダスがすることを完全否定する子どもたちが増えてきたためです。その子どもたちはエパミナンダスがやらかすたびに「バカじゃないの?」という声をあげエパミナンダスを卑下する受け取り方をしていきます。これでは物語として楽しめませんし語っていても後味が悪いのです。そしてここまでの反応ではなくともエパミナンダスの引き起こす事態にどう反応したらいいのか戸惑う子どもたちも増えている印象です。確かに現実社会で人の失敗を笑うことは褒められることではありませんが物語の世界にまでそのルールを持ち込むと物語が物語でなくなってしまいます。エパミナンダスの一生懸命さによって引き起こされる事態を驚いたり笑ったりしながら、起こったことは起こったこととして受け止められるからこそ楽しめてきたのだと思います。そしてこれは物語の世界と現実社会があることを知っているからこそ成り立ってきたのではないかと予測しています。

 「エパミナンダス」は思ったように聞いてもらえないので、ここ数年使ってこなかったのですが、久しぶりに今年2年生に語ってみています。どう反応したらいいのか戸惑う感じやエパミナンダスを否定する聞き方をする子が多く気持ちよく笑えない感じがもどかしかったのですが、その中で以前と変わらない手応えで聞いてくれたクラスがありました。そのクラスは誰一人エパミナンダスのすることを非難せずに起こった事態をそのまま受け止め「あーあやっぱりやっちゃった」という先を予想した温かい笑いが起きました。そして最後の最後まで予想を裏切らないエパミナンダスの行動に驚きをもって寄り添ってくれました。

 これはこのクラスが物語を物語として受け取る素地があるからだと思います。このクラスは1年生の時に徹底して読み聞かせを取り入れてきたクラスです。毎日必ず読み聞かせをするというのはこなさなければならないことが多い学校では先生の強い意志がないと難しいことだと思います。けれどこの実践があったのでクラス全員が物語を物語として受け取れるのだと感じています。

 物語を物語として受け取れない子どもたちが増えてきている中、ストーリーテリングをすることは今まで以上に聞き手を育てることを意識していくことなのだと思います。そして物語を聞くことは活字が生まれる前から人が楽しんできたことです。そのためストーリーテリング は子どもたちが物語を物語として受け取ることができるようになるための力になると考えています。どのお話を使うかだけ工夫が必要ですが、今が頑張りどころだと感じています。