相手を選ぶことも

 ストーリーテリングを聞いたときの子どもたちの笑い方が変わってきていることを考えていたら、ストーリーテリングを学び始めた頃に教えてもらったことを思い出しました。それは笑いを誘う話は聞き手を選ぶという教えです。おもしろいと感じる中でも笑うというのは意外とおとなが思うより難しいことなのだと教わりました。年齢が低ければ低いほど、どうしておもしろいのか分からずにキョトンとすることがあるというのです。笑うには本来する行動がわかっていて、それとずれることが笑いの元になったりします。荒唐無稽は本来あり得ないことをしているおもしろさでもあるのです。けれど年齢が低いと経験値も低いので本来どうするべきなのかを知らない場合もあります。するとずれた行動を本来の行動だと受け取り、大真面目に聞いてくれて笑いにならないということになります。

 例えばエパミナンダスも、バターを葉っぱに包んで帽子の中に入れて頭の上に乗せるということが変だと思ったら笑いになります。けれど変だと思わなければバターが溶けてエパミナンダスがバターだらけになるまでおかしいことに気がつきません。次の子犬もそうです。子犬を葉っぱに包んで水の中に入れて冷やし、水の中に入れて冷やし、水の中に入れて冷やしてからそうっと手に乗せて持って帰るのもそんなものかと大真面目に聞いたりする事があります。そして家に着いた時には子犬はもう半分死にかけていたことにショックを受け、笑うどころではないという反応になったりします。一方経験値があれば子犬を葉っぱに包んだ段階で「えっ?」となり水の中に入れて冷やしだすともっと「えっ?」となり笑いになっていきます。そして物語を物語として捉えられるほど物語を受け取り慣れている子になると、その前のバターとケーキの関係からエパミナンダスが子犬を迷わず水につけるだろうことを予測してやっぱりという笑いになります。ストーリーテリングで語られる物語のテキストは完成度が高いのでトータルで聞くとああそういうことかとエパミナンダスの行動が理解できるような作りになっています。例え場面場面では受け入れられないことが起きても納得できるような作りなのです。そしてそれは物語を丸ごと受け止めれば説明の必要がありません。

 けれどエパミナンダスのような笑うタイプの話は、あまり年齢が低いと例え物語を丸ごと受け止めても、へーこんなことをする子がいたんだという受け取り方にしかならないので聞いた側に満足感が生まれません。ですからこういった物語は小学生のそして物語を聞き慣れてきた子どもたちにすることが多いです。ユーモアに対する感受性はおとなになればなるほど豊かになっていくものだと感じています。