やっぱり体験なのかも

 エパミナンダスをうまく受け取ってもらえないという話を何回かしていますが、昨日これ以上はないという受け取り方をしてもらいました。何が良かったのかと言えば聞き手がエパミナンダスの行動を子どもたちが体感できるレベルでイメージできていたことです。ケーキを指でギュッと握りしめて家へ持って帰ったというところで、こんなにわかってもらえたのは久しぶりです。柔らかいケーキを握りしめたらどうなるかがちゃんと共有できました。これは聞き手が体験したことがあるからだと感じました。ケーキに限らず、うっかり柔らかいものをダメにした経験が少なからずあるため想像しやすかったのだと思います。最近はなぜケーキがダメになったのか伝わらずキョトンとされることが多かったので語っている方もこれでグッと語りやすくなりました。柔らかいものを運ぶ難しさがわかっていないと葉っぱで包んで帽子の中に入れてそうっと頭の上に載せるよう教えるお母さんの方が変なことを言っている人と受け取られてしまうことさえあります。今回は出だしがピタッとはまったのであとはもうこの物語のおもしろさを十分感じて聞いてもらえました。次の行動が予測できるだけでなくエパミナンダスがどう行動するのかがわかっているのでおばさんが何をくれるのかを予想したり期待するくらいの余裕が聞き手にありました。物語を聞き慣れていてうまく受け取ってもらえることはあっても、聞き手が迷うことなくイメージで物語を受け取ってもらえることは滅多にありません。そしてエパミナンダスは実生活で子どもたちが体験し体感としてイメージしやすいことが題材になっていると改めて思いました。エパミナンダスがストーリーテリング に慣れていない子どもたちでも使えたのは子どもが普段の生活の中で実際に体感したことがあるだろう要素で物語が作られていることも大きかったのだと思います。実際今回聞いてくれた子どもたちの聞き方から子どもたちの体験が豊富だったことで、エパミナンダスの行動がリアルに想像でき物語の展開に楽についてきた様子が感じ取れました。

 最近は子どもたちの実体験が私たちの予想以上に減っているのだと思います。語彙が少ないと言われるのは言葉を音として蓄積していて体験と結びついていないためイメージが作れないのではないかと今回思いました。言葉はイメージがつくれる形で蓄積しないと語彙として使いこなすことはできません。エパミナンダスのように物語から体験を呼び起こすことで楽しめるようなタイプの物語は語彙の確かさが問われるのだと気がつきました。そしてエパミナンダスが物語を聞き慣れない子どもたちに喜ばれたのは実体験が物語へ導いてくれるからだったのだと思います。体験の裏付けがない形で言葉が語彙として蓄積されていないことがある今の子どもたちにとってエパミナンダスは聞き始めの子どもたちにぴったりの物語ではないことを確認した思いです。ちなみに昨日語った学校では学校の敷地内に安全に配慮した形の用水路があり、子どもたちはその川に入って遊んだり、ちょっとしたものを洗ったりしています。エパミナンダスの中でバターを小川へ持っていって水の中に入れて冷やしの場面に、川を知らない子どもたちは汚いとか危ないという反応をすることも多いのですが、川が身近にある昨日の子どもたちには自然に聞いてもらえて本当に語りやすかったです。知っているだけではなく体験していることの威力を感じました。