本音が隠せない

 物語を音読していると黙読しているときより自分の考えが外に出る感じがします。物語で起こっていることを自分がどう感じているのかなどは声にのせるとダイレクトに表れる傾向があると感じています。読み聞かせやストーリーテリングの難しいところはこの自分の考えていることが無意識に表れやすいところにあると思います。物語の展開に疑問を持っているとそれが声にのって聞き手に伝わるのです。また訴えたいことがあると意識としては秘めたつもりが自覚なしに漏れ出すこともあります。古くから言霊と名付けて喋る言葉に注意深くあるよう戒めてきたのは自分の意志とは関係なく考えていることが表れることも理由のひとつではないかと思います。

 そして物語が主役という考え方も声にのせた時に語り手の考えていることが漏れでて物語の展開を妨げないためのものだとも言えます。物語に集中すると余計なことを考える余裕がなくなるからです。いかに物語に集中するかというのが語り手にとって重要なのです。伝えよう伝えようとするのではなく物語の中で起こっていることを見て感じて実況する感じでしょうか。実況するためには物語の展開に疑問を持っていては言葉が鈍ります。起こったことを起こったと伝えるのがストーリーテリングで、物語を受け取ってどう感じるかは聞き手の領域です。そして自分がどう感じてどう受け取ったかを分かち合うことは感想を言い合う読書会などで行うことで語り手の役割ではないと感じています。そのため起こったことを起こったと伝えることに違和感がある展開の話を語る必要はないと思います。語り手も人ですから機械のように感情を全て排除することはできません。物語の展開に納得がいかない話をすることができないのは当たり前なのです。

 かと言って語り手が内容に強く共感したり内容に心が揺さぶられるような話は語り手の感情がのりがちで物語を伝えることから逸脱することがあります。淡々と語れという言われ方をするのはこの強く共感していることへの戒めだと思います。私も好きな場面や心惹かれる登場人物に肩入れしてうっかり物語のバランスを崩して語った経験があります。声に出して伝えることは意外とコントロールが難しい面があるのです。ですから物語に集中するしかないのだと思います。声に出して伝える以上本音が隠せないと思った方がいいと感じています。