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物語を聞くということ

 読み聞かせについて説明していると、どうも噛み合わないと思うことがあります。その理由を考えてみると子どもの聞き方についての解釈の違いにあるような気がします。おはなしざしきわらしの会ではストーリーテリングを主軸にしていることもあり、聞き手の反応が大きいことを重要視していません。子どもたちの目を見て語っていると子どもたちが声を出したり笑ったりしなくても、どう聞いているのかを感じることができ、読み聞かせの時もその応用で子どもたちの集中の度合いを感じ取っているからです。けれど絵本の読み聞かせだけしていると子どもたちの表情を見ることができないので、子どもたちが声を上げたことや笑い声を立ててくれることがよく聞いていることの目安になっているのではないかと感じています。ストーリーテリングと絵本の読み聞かせを両方しているから感じ取れる子どもたちの集中度合いも、絵本だけ読んでいると感じ取るのは難しいのかもしれないのだと思います。

 止まることなくさらさらと進む物語を聞いて受け取るには意外と集中力が必要です。そして自分が笑ったり喋ったりと発信する側に回った途端、物語を聞き落とす危険にさらされます。聞き落とすと物語の進行についていけず内容が分からなくなることがあるので聞き慣れた子ほど物語を受け取ることに集中します。

 おとなは物語を渡せたかどうかを判断する時に子どもが内容をどう受け取ったかに注目しがちです。そして子どもの発言を子どもがどう受け取ったのかの手がかりにしようとします。けれど合いの手やコメントを挟む聞き方は物語を受け取ることよりも自分の発言を考えることの方に比重がかかっています。また部分的に引っかかるところがあって声を上げずにいられない聞き方は物語の展開を追うことより疑問の解決が優先されています。これらはよく聞いているから起こることではなく、どちらも物語の中に留まらずに途中で現実へ戻ってきているために起こる反応だと考えています。読書をしている時には内容について途中で思いを巡らすことは珍しくありません。物語の途中で自分だったらどうするだろうと考えたり相手はどう思ったのだろうと視点を変えたりと考え込むことも含めて読書です。これが成り立っているのは自分で読書する時の物語の進行は自分の意思でコントロールできるためです。読み聞かせは自分が止まって考えたい時に止まれないので途中で考え込むことは物語から出てしまうことにつながります。集団の読み聞かせが特殊なのはこの止まれないことです。ですから読み聞かせを聞いてからその本を自分で読んだりするのは自分のペースで物語と向き合うことで歓迎すべきことなのだと思います。聞いて受け取れるものと自分で読んで受け取れるものは同一とは限らないのだと思います。