昔話の底力

 昨日、小学校3年生にストーリーテリングで「ルンペルシュティルツヘン」をしました。3年生にどうかなとは思ったのですが、聞く回数を重ねてきているので語ってみたのです。小学生の聞き手に語る機会が減ってきているので聞き慣れる状態を待っていると高学年に語ることもある物語ですが、グリムの昔話は物語の骨格がはっきりしていて聞き手をぐいぐいと引っ張る力があると感じているので物語の力を借りるつもりで語りました。

 ルンペルシュティルツヘンは、ある粉屋が自分の娘はワラを紡いで金にすると王様に話したためにそれができなければ命がないと言われた粉屋の娘の話です。小人との不思議なやりとりや糸車が回る様子、そして小人の名前を当てるという最後のエピソードまでテンポ良く物語は進みます。聞き手の興味を逸らさず、長さを感じさせない作りで、ストーリーテリングで語ると独特な味わいがあります。

 語ってみると、粉屋が「私の娘はワラを紡いで金にいたします」と言うシーンで聞き手の子どもたちは一様に目を丸くします。そして王様の前に連れてこられた粉屋の娘が王様に「一晩で部屋いっぱいのワラを金に紡げなければ命はないぞ」と言われたことに対する驚きで一層物語に入り込みます。ところが昨日は物語の展開に欠かせない金がイメージできず何度も繰り返される金に紡いでいくシーンに耐えきれず思わず「金って何?」と言う声が上がり驚きました。幸いなことにその子は特に言葉を足さなくてもなんとか物語についてきていました。王様がもっと金が欲しくなることや粉屋の娘を金持ちと評していくのできっちりイメージできなくても高価なものという感じが持てたようで最後まで物語の中にいました。

 語っている最中は金をイメージできない子がいることに動揺して、ついにここまできたかと思ってしまいました。けれど金がイメージできないなりに真剣な顔で耳を傾け物語に留まったその子を見て昔話の力を感じました。その姿はイメージできないものがあっても物語の中に留まっていられれば伝わるようにできていることを伝えてくれたと思うからです。金以外にも「お妃って何?」と言う声も上がったのですが、王様が粉屋の娘に向かってお妃にしてやるぞということでは分からなくても、娘と結婚式をあげたことが語られるので物語として必要なことは伝わったと感じました。

 昔話は語彙力が十分でなくとも物語が伝わるような工夫がされていると改めて思います。その工夫は昔話が聞くものであったことと、聞き手は一人ではなく集団であり、その集団も子どもからおとなまでの幅広い年齢層で構成されてきたことが大きいと思います。言葉で語られるので物語を受け取ることと言葉の理解の関連性は深いですが、物語の中に留まることができれば言葉の理解を助ける作用もあるのだと強く感じました。