耳が繋いできた

 昔話は聞いてこそ、その魅力を十分堪能することができます。ストーリーテリングを始めた頃から、語ることの手ほどきを受けたり昔話の成立してきた過程を考えることで理屈としてはわかっているつもりでしたが、最近ようやく私自身の感覚として昔話は聞いてこそのものだと言えるようになったと感じています。

 現代の語り手は、まず語るところから入ることが多いのです。かく言う私もストーリーテリングを一度も聞いたことがないまま本を頼りにストーリーテリングを始めました。今思えば聞いたことがなかったのでできないと思わなかったのかもしれません。その後縁あって指導してくださる藤井先生に出会い勉強会に参加することでストーリーテリングを聞くようになったのです。けれど勉強会で聞く機会はできたのですがもったいないことに聞くことに集中できませんでした。私の参加していた勉強会は自分も語らなければ参加できない仕組みだったからです。そのため自分が語ることが気になって自分が語り終えるまで他の人の話に真剣に向き合っていなかったと思います。失礼なことに自分より前に語っている人が物語の途中で言いよどんだり止まってしまったりすると自分もつられて失敗しそうなどと考えてしまったりしていました。ですから先生のストーリーテリングに夢中になったのはいつも一番最後に語ってくださっていたので私の聞く体勢が十分整って物語に集中していたことも理由のひとつかもしれません。

 ストーリーテリングを聞き慣れていくと聞くことはとても楽しいことになります。けれど聞くだけの機会を重ねていくと、多分語ることが怖くなる気がします。語るところから離れると私たちは誰でも批評家になるからです。批評家と呼ばれる人が辛辣なことをいえるのは自分が評価するだけの役のことが多いからだと思います。そう言う意味で語らなければ参加できないという勉強会の仕組みはとても理に叶っていたのだと感心しています。私たちは語りがどうだったのかを評価するのではなく物語そのものを受け取ることの楽しさを体に刻み込ませるために聞いているのだということにようやく気がつきました。だからこそ何度聞いても聞き飽きないし何度でも聞きたいと思えるのです。そうやって物語は私たちの耳が繋いできたのだと感じています。