聞き手が一人ではないということ

 ストーリーテリングを語る時には必ず複数の聞き手がいます。語り手と聞き手が一対一になることはストーリーテリングでは想定されていません。集団に語るためには集団用の視点が必要になります。語っている最中の質問に答えたくなったり、ちゃんと理解しているのか不安になったりするのは、集団と向かい合っているという感覚が十分でないために起こることなのだと感じています。

 集団に語っている時に大事なのは、物語についてきている聞き手に注目することです。ストーリーテリングは聞き手と語り手で作り上げるものです。一緒に物語を共有することで成り立ちます。そのために物語を受け取っている聞き手がストーリーテリングの進行の伴走者になります。この伴走者がいるからこそ語れるのです。語る時に聞き手の目を見ながら語るのは受け取っているかどうかが目を見るとわかるので伴走者を感じる事ができるからです。語り手はどちらかというと受け取れていない聞き手に目が行きがちです。けれどうまく受け取れずに物語の中に留まれない聞き手を語り手が物語に戻そうとすると物語のバランスが崩れて受け取れている聞き手が混乱します。語り始めたら聞き手のことは聞き手の集団に任せるしかありません。そしてもともと集団になっているところで語る方が語りやすいのは、聞き手が集団で動く経験があるからです。物語からこぼれてしまっても、集中して物語を受け取っている聞き手の姿勢に影響されて物語に入り直せたり、うまく受け取れなくとも展開についていこうという意欲が生まれやすいのです。

 もちろんどの物語を語るかを選ぶ際には、できるだけ多くの聞き手が受け取れることを考える必要はあります。この選択は慎重に行いますが大事なのは全員が理解できるかではなくできるだけ多くの聞き手が物語として受け取れるかどうかなのだと思います。理解と受け取ることは同じではないかという声が聞こえそうですが、理解という言葉を物語を受け取ることと同義だと考えることに違和感を感じます。理解はわからないことをそのままにしないで自分の知識と照らし合わせて確認しながら慎重にいく感じがして読み進める時にぴったりな表現だと感じています。一方物語を受け取るといった時はわからない言葉があったとしても前後の関係から全体像を掴みつつとにかく前に進んでいくことに比重があると考えています。ですから最後まで聞き続けていけるかどうかが重要で、集団で聞くことで聞くことへの推進力がつくことを重視しているのだと思います。