知らない言葉が出てきても

 ストーリーテリングをする際、日常で使わない単語が出てくることを心配する人がいます。けれど聞いて伝えられてきた昔話は、知らないものが出てきても物語の展開からは大きく外れないような工夫がされているのだと最近思います。例えば囲炉裏などイメージできる子は今ほとんどいないでしょう。けれど物語に必要な形でイメージできれば正確な囲炉裏が分からなくても物語としては伝わるように出来ています。具体的な例では「三枚のおふだ」の和尚さんと鬼婆のやり取りで、餅を焼いていた和尚さんが囲炉裏の縁を叩いてという件がありますが囲炉裏が分からなくても餅が焼けるようなところの近くで叩いて音が出るのだという事がわかれば物語にはついていけます。「牛方とやまんば」も同じです。囲炉裏の側にどっかと腰を下ろして餅を焼こうか寝ようかと考えるやまんばですから餅が焼けるような場所で暖かい事がわかれば話にはついていけます。またこの世のものではないものたちである「やまんば」「小人」「妖精」などもその言動から人でない事がわかるようになっています。

 そしてこの知らないものやイメージしにくいものが出てくる事が聞き手の集中力を高めるのだと感じています。それ何?と思う事で好奇心を刺激され頭が働きだすのだと聞き手の子どもたちを見ていて思います。考える余地があることこそ読書の醍醐味であり聞く読書としてストーリーテリングをしている理由です。ですから正確にイメージさせようとして言葉を足す必要はなく聞き手も説明して欲しいわけではないことを語り手は理解する必要があるのだと最近思います。先日もロシアの昔話の「マーシャとくま」を2年生に語っている時「くまが外へ出ていくとマーシャは大急ぎでつづらに潜り込み頭の上におまんじゅうのお皿をのせました」のところで、ポツリと「どうやって?」と思わず口からでた子がいました。それを聞いてどんなつづらとどんなお皿をイメージしたのだろうと微笑ましくなりました。そしてお話はどんどん進んでいくのでそれ以上拘らずにとにかくつづらってものにマーシャとおまんじゅうが入ったのねという形でちゃんとついてきていました。この感じがストーリーテリングを聞くときのスタイルなのだと思います。自分なりに受け取る事が大事で正確に物を思い浮かべられることや知っていることはさほど重要ではありません。ロシアのつづらを調べようと思えば簡単に画像で確認できる時代です。けれど物語の受け渡しに必要なのはロシアのつづらの材質でも大きさでもなくマーシャが潜り込みくまが担いでいける物だということです。ストーリーテリングを聞く体験を重ねたいのはこの感覚を掴んで欲しいからです。そして子どもは聞き慣れてくると物語についていこうとしてこの感覚を身につけていきます。ストーリーテリングは語り手も聞き手も物語を聞く事が大事です。