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心象スケッチ

 宮沢賢治は『春と修羅』を自費出版した際に、これは「詩」ではなく「心象スケッチ」だと述べています。人間の心象を描くということは個人的なものを越えて普遍的なものをスケッチすることだと賢治は考えていたようです。賢治の「心象スケッチ」に対する考え方は『春と修羅』の序を読むと賢治の思いが伝わります。その中で私が特に惹かれるのは「すべてこれらの命題は心象や時間それ自身の性質として第四次延長のなかで主張されます」という結びの言葉です。賢治の文章は難解な表現が多いですがここでいう第四次は時間のことで、賢治は自身の心象スケッチは現世だけに受け入れられるものではなく、四次元で生き残ることができ、どの時代においても新たに生まれることができるような芸術であり広い宇宙とつながる自分の心を言葉で書き表したという考えだと思います。

 『春と修羅』は「永訣の朝」が有名で確か教科書に載っていたような記憶があります。ヒリヒリとするような痛みと行き場のない悲しみで『春と修羅』はその一作を読んだだけにも関わらず宮沢賢治に長い間苦手意識を持つほどのインパクトでした。童話と言われる作品も有名な作品が数多くあり、音を感じさせ耳に残るような印象的な美しい文章で綴られています。でも、それがあまりにも真っ直ぐで自分に厳しい賢治の眼差しを余すことなく伝えるので読み手自身の曖昧さをも許さないものと受け取ってしまい、やはり苦手だと思っていました。けれど今読み直してみると賢治の純粋さは眩しく、他者を責めるものではないことがわかります。そして心象スケッチに代表される賢治の普遍的なものという感覚は昔話に通ずるものがあると感じています。賢治のような作家はその才能によって時代を越えていくのでしょうし、昔話は関わった個々には才能というほど突出したものがなくてもたくさんの人が時間をかけて磨き出したものとして時代を越えていくのでしょう。そのたくさんの連なった人の一人として私たちは語っているのだともいえます。『春と修羅』のなかに「水汲み」という作品があります。宮沢賢治が実際農作業に勤しんでいたことを思い出させる作品で、文中に「水を汲んで砂にかけて」というフレーズが何回か出てきます。この果てしない繰り返しの感じが私たちの取り組んでいることに似ています。ささやかな取り組みですが物語を楽しむ子どもたちの未来を思って水を汲んで砂にかけるように私たちはストーリーテリングをしているのかもしれません。